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商品分析 [清酒の面白み]

付加価値をつける競争をしていることがトレンドでありましょうか。

付加価値をつけるということは何か?と考えていると巷で言われている、安く作って高く売るための物語をどれだけ多くの人に納得をさせるのか作業もその一つでありましょうし、安く売らないということもそうでありましょう。


ナウでヤングな酒質の清酒を口にしました。

頑固で保守的で意地でも新しいものは手にしないタイプを演出している私としては(苦笑)
清酒の味わいの方向性というものがどういうものなのかを探るために、できるだけトレンドに左右されないようなものは何かと考えていました。それは時代に影響をうけならがも清酒というものは、技術で作り上げるプロダクトであるというのが現状の認識です。

そのような中で、現状の、少なくともこれからも数年は味わいのトレンドになっているであろう酒質を口にしてみた印象は、「賑やかな場所で口にすると心地よいと思える明るい酒」でした。

どのような場所かと考えると、夜よりも、明るい時間帯のフェス、でしょうか。清酒のブランドや蘊蓄などを語るのではなく、明るい時間の集まり。DJブースからは軽快な音楽が流れ、集まって飲んでいるのに個人主義志向が支配している空間。世代は、30代から40代。男女問わず、小さなお子さんを持つ家庭も含めた構成。

地味系の私には、全く無縁の世界でありますので上記のことは全て妄想です(笑)

そのような場所で飲むと、流れてくる音楽も、人との会話も、空間にいることを楽しんでいる雰囲気も邪魔しないような存在の味わいだと、直観しました。

この味わいの是非はともかく、そのような場所で有用な役割を担える酒質だと考えます。

なるほどと感じましたのは、前時代に対する韻をしっかりと踏んでいることでした。

前時代の韻とは昭和40年代を始まりとする、「吟醸酒」。この吟醸酒には、旧来の日本酒ファンは、熱心に参加しなかったとあります。それは吟醸酒が、明るい酒だったからだと、モノの本には書かれています。

昭和の酒は、悲しみ、嘆き、失恋と寄り添ってくれる暗い酒であった。それに比較して吟醸酒は、明るい酒であったことが、ブームの始まりであったと。

吟醸酒が、昭和の暗い酒に対してとった立ち位置に、現在の酒質設計の清酒が入ろうとしている。吟醸酒というものを古いものだとレッテルを貼る、そして今の時代に合わせた酒質と置き換える。

マーケティングとしては、セオリー通りでありましょうし、現役の若い世代の人たちの生活に寄り添える酒質であれば、尚良いことでしょう。

では、古いとレッテルを貼られた吟醸酒の価値というものは、なくなってしまったのでしょうか。

吟醸酒の中身の価値は変わらないでしょう。変わるのは、マーケティングに引きずられる人たちの価値観だけです。

社会志向の酒が戦後、さらに個人志向へと方向性を進めたのは、奇遇にも吟醸酒ブームと重なるのではないかと観察します。そして清酒は売り上げを落としていく、それは社会性を共有するためのツールの役割を果たさなくなったとも見ることができます。ビールであったり、経済成長とともに「清酒」以外のものに移りましたし、社会性を共有するという認識自体が、個人志向の台頭で失われていくことになります。

清酒における個人志向の酒とは、吟醸酒の役割でありました。その役割を、ナウでヤングな酒質の清酒がとってかわるのも、吟醸酒を指す、特定名称酒を排除することで一つの地位を得ようとしている。今の酒質の清酒が、吟醸酒のファン(もしくは価値をそこにおいていた人たち)に受け入れられないのも、歴史はくり返すメソッドです。

ただここで、私が飲んだ清酒の味の設計と齟齬が生まれます。

個人志向の酒であるのに、集まっている人たちの会話を邪魔をしない味わい(設計)ではないかという印象。社会性を共有することの役割を担っていた昭和の酒は(柳田國男氏の観察ですと、大正時代の清酒ですら個人志向の趣が入っています)、吟醸酒によって否定され、その吟醸酒を否定するナウでヤングな酒は、社会性の共有といった清酒の本筋の役割を担っているようにも見えます。

しかしその役割を果たす酒質であるかと考えれば、昭和の酒とは程遠いものであります。この齟齬の距離感はなぜ感じるのだろうと雑誌をめくっていると、某酒蔵の清酒は、スペックとしては「社会性を共有する役割を担っていた時代の酒の韻を踏んでいる」と、思い当たりました。低精米、木桶仕込み、蔵付き酵母、伝統産業、國酒としての清酒。

では昭和の酒のような社会性の共有を図れるモノであるのかと考えると、付加価値生産性について否定せざるを得ない。誰もが気軽に飲めるモノではないということです。この蔵の方針は、見事なほど、時代時代の良いとこ取りをしているのではないかと、推察します。

それをさらりとこなしているあたりが、興味深いところですが、その先の思想というものがなんであるのか。厨二病の親戚縁者であるのかどうか。ただ既存社会へのアンチテーゼをビジネスモデルに転化しているのか。

木桶による有機的な酒質のランダムの変化を、自然に敬意を表しているとするのかそれとも技術力不足による品質保持の未熟と受け取るのか。それを付加価値の物語でクリアしていくというのが、ビジネスモデルであるならば、私としては少々距離をとっているくらいがちょうど良さそうでもあります。

ペルソナ設定とは、もっと細かいところまで詰めていくのでしょう。それでも構わないのでしょう。マーケティングに都合の良い「いてもおかしくはない人物像」は仕上がりますが内容といえば、保守と進取の区別は混同して、今の自分たちに都合の良いものしか浮かびあげられていないと。それは消費者が欲しいものを提供しているのか、資本の運動に都合の良い消費者像を作り出しているのか。

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