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シン・エヴァンゲリオン 願い [雑感]

岡田斗司夫氏の解説動画にて、庵野監督の作品では、破壊をする絵が美しいと述べられています。

それは、破壊をすることでそのモノの本質を描き出しているからだと。

ではこのシン・エヴァンゲリオンにおいて、なんの本質を描き出そうとされていたのかを知るためには
何を破壊しようとしているのか、それを観察してみます。

すると破壊することではなく、
その時代をオマージュすることで本質を描き出そうとしていたのではないか。
アプローチの仕方を変えているのではないかと。
その時代とは?

子供と大人の対立構造が、資本主義経済社会において都合良く使われたタイミング、ではないか。私はこの映画を見て、肩を押された思いがしました。

子供と大人の対立構造を解消することはできないけれども、
塩梅よくする方法は、排除していた、古いとされた社会の慣習にあった。

庵野監督自身、このことにどのタイミングで気づかれているのか分かりませんが
この映画においては、そのことを、何も排除することなく自分の思いを物語に
込められているのではないかと、私は思います。

ポストモダン的な考えを排除することなく、指摘する。

人権の尊重や、自由などといった、近現代的な思想や考え方は、
科学文明で、人類社会の生存を大きく脅かされていない現在において(COVID19の出現も啓示的と捉えられる理由でもあります)、肩で風を切るがごとく社会での存在を大きくしていますが、
人類社会が、人類の生存、生き残りが切実になった時には、
社会に対して普遍的な役割を果たしていない。
子供とは、所属する社会から恩恵を受けているだけの身分のこと。
大人とは、己の能力を社会に還元する意思を持ち行動をしていること。
自由、人権の尊重、女性の社会進出、性差別の解消、などといったことは、
人類の存続の前においては、普遍的な価値観を持ち合わせない、
そのことをこの映画の物語から読み取ることができます。

ではそのような切羽詰まった社会の中で行われていることは何か。
生物としての、至って真っ当な生活であります。
子を産み、育て、死んでいく。初代ガンダムの出だしのセリフです。
生きるために農作物を植え、育て、人との関わりの中で
己が為すべきことを社会で為す。

佐藤優氏は、資本主義経済社会において、労働力を貨幣と対価としない社会は、
東日本大震災の時に、被災地域において一瞬であっても出現することができたと述べています。
それは数日間であっても、被災地域の社会にいる人たちが、
自分以外の人のためになることをすることで社会として共同体として生きることができたと。

庵野監督が何かを感じたとすれば、やはり、
東日本大震災の被災地であったかもしれないと思えることです。

私は、独身で過ごしています。
社会に対して、生物の本能としてごく当たり前に、子供を育て、死んでいく。
このことから遠く離れた位置にいます。
これは、同調圧力ではありません。
生物の本能と、人類社会が継続していくための「倫理」の価値観が、重なり合うことです。
資本主義経済社会では、この生物の本能としての倫理までも取り入れて
自らの拡大に利用することができる、奥の深い構造となっている。
それに対しての対立が、同調圧力と、日本で呼ばれるようなものなのでしょうが、それは生物の本能と、社会構造への反発と別個のものとして考えても良いでしょう。
何かに対立することでしか己を律することができないことは、不自由ではないか。
私はそのように思います。

近代的なもの、脱近代的なもの。ポストモダン的なものに対して、
エヴァンゲリオンは一つの解釈を提示することができている。
それは、20年以上前の庵野監督では思いつかなかったことでありましょうし、
宮崎駿氏など、身内の映画界に対しても言葉を投げかけているのかもしれません。
何かに反抗するばかりで良いのですか、内ゲバのような身内批判だけで良いのですか、と。

とすれば、ジブリの最新作品などは、子供と大人の対立構造を使うことしかできていないので
カビ臭く思えてしまうかもしれません。

誰かを攻撃しなければ批評ができないというのは、小林秀雄氏がその創作の中で、
私は自分の気に入ったものだけを書く、
気に入らなかったものはすぐ忘れるようにしているから書くまでに至らない。
そのような姿勢を取ることが、何かに反抗しなければ自分を律することができない風潮の
1960年代後半からの日本の社会を批評していたのではないかとも考えます。

となると、シン・エヴァンゲリオンの映画の評価は、時代の制約性が大きく関わることになりましょう。

多感な青春時代をどの時代で過ごしたことが、近現代の時代の制約性だと私は考えています。

10代、20代の若い世代の人たちで、映画の中の「優しさ」が大きくなっていけば、
彼らの世代なりの資本主義経済というものに対して「止揚」する、小さな、
それでも確かな一歩になることを、願わずにはいられません。

興味深いのは、契約社会というものを色濃く残している描写があることです。
資本主義経済社会は、人類の生存の確保のために「抑える」ことをしていても
「契約社会」つまり「法治国家」という体裁は、色濃く残しているということです。
これも何か意味があることなのでしょう。

キャラクターに監督は言わせます。
今日と一緒の明日だっていいじゃないですかと。
同じように生きることができる、それだけでも十分幸せなことだと表現します。
昨日の続きの自分でいることに、否定をしない。
明日にでも人類は滅びてしまうことについて、目を背けていない。
資本主義経済の中で生きていると、そう考えること「も」できるのを忘れがちです。

最終場面、生き残った人類の村において、絶望的な状況の中で生き残る希望を口にする世代と、
家の中で背中を丸めて、窓の外の状況を振りかえりみて、
酒を口に窓に背を向ける父親世代の描写があります。
これは、社会の不都合な現実に対しての、監督が見た日本の社会の現状でありましょう。

いつ滅亡してもおかしくない状況は、
現状追認することでしか生き延びることができない人類にとって、
ポストモダン的な思想というものでは、生存することが難しい。
その思想は普遍的なものではない。
普遍的なものとして残るのは、契約社会と生存するに必要な商品経済社会。
労働力の対価で支払われるのは、現物支給。
資本主義経済社会を止揚し得たのは、人類が滅びる段階であるというのは皮肉でもありますし、
それだけ資本主義経済社会というものは、一度、社会に組み込まれると、
脱構築することが困難であるとも考えられます。
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