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閃光のハサウェイ [雑感]

劇場版、閃光のハサウェイを観てきました。

大画面で見るということは、得られる情報量が多いと体感できます。




高校生の頃に読んでいた小説が、劇場版として見ることができたことが感慨深いです。

CGと実写の組み合わせの仕方が、できるだけ自然になるように意図されているのが
よくわかります。
実写の生々しさをCGで補正して、CGっぽく見せているといっていいのでしょうか。

物語の結末が、この第一部に伏線として用意されていることに気が付きます。
小説を読んでいた時には気がつかなかった(当時と今では違いがありますので、今の自分で読んでみたいです)ことが、映像化されてわかるようになったのか。
新しく就任した連邦軍の司令官は「大人」で、反連邦軍組織マフティーは「学生サークルの延長」
でありました。
「学生サークルの延長」のマフティーが活動できたのも、
当時の連邦軍の司令官の組織力の弱さのためであり、
「大人」が組織をした「組織力」の差が、そのまま彼らの活動の困難さに直結しています。

主人公の一人、ギギ・アンダルシアの存在に目を奪われてしまっていましたが、
彼女の「言葉では説明できないけれどもそうなってしまう」存在の理由以上に、
大人が組織をした軍隊と、学生サークルの延長の組織力の差が、物語の結末でもありましょう。

この子供と大人の差を、三人の主人公の二人、ハサウェイとケネスに投影しているのも
ギギ・アンダルシアの行動によって示唆されていました。

興味深いのは、これまで初代ガンダム、Zと少年がパイロットになって
少年の視点からの大人の社会を、反逆なり対立構造なりと描いていたのですが、
劇場版「逆襲のシャア」は、アムロとシャアの対立構造の終結を描き、
その続編とも考えられる「閃光のハサウェイ」においては、
社会に適応することを身につけた(馴れ合うとギギは言う)大人との対立構造。
これは、ハサウェイ、ケネス、ともどもに
社会と馴れ合っている大人に「してやられる」物語でもあると考えられます。

大人が大人として運用を始めた連邦軍組織は、その組織力を効率的に運用し始めると
新司令官就任数日で、マフティの拠点の一つを暴き出してしまいます。
前任の司令官ではなし得ず、その前任の司令官の能力の低さゆえに活動ができていたマフティ。
この結果だけでも、マフティが反連邦軍組織として危機的状況になったことを示しています。

ハサウェイのギギに対する態度が、映像化されることでよくわかるようになったと感じました。
私の多少の人生経験も役立ったいるかもしれませんが(汗)
小説を読んでいる当時では、私にはわからなかったふたりの機微を感じ取ることができたのは
映像としてみることができたからだと考えます。

今になればわかることなのかもしれませんが、
ハサウェイの正体を反連邦政府組織のマフティだと見抜いたギギ・アンダルシアが
部屋の共有空間でトップレスの姿で部屋の大鏡の前に立って、
それをハサウェイに見られた時に羞恥と大きな声でハサウェイを非難します。
その声に対してハサウェイは毅然と、知らない男がいる部屋で裸になっているギギの
その不用心さを指摘し、そんな破廉恥だったのかと、少々手厳しく指摘もします、が
それまでの彼女の言動を見れば、言いよる大人たちを手玉にしながら、
テロ行為をしているハサウェイにも冷たくも正論で諭すようなことを言えるような彼女でしたから、
知り合ったばかりの人間関係としてハサウェイの言い分にも理があったのだなと、
今になってわかるようなものです。
ここにもギギ・アンダルシアの伏線が考えられます。
彼女もまた、若くして大人にならなければ生きていくことができなかった、
馴れ合いの社会に鋭い視線を送る彼女と、社会に馴れ合うことで生きることができた彼女の
内心に抱えているギャップを考えることができます。

ですから彼女が、MSの市街地戦において、その惨状に自我を失いかけ、命からがらハサウェイと逃げ回った後に、「大人」であるケネスに抱きつきにいったと言うのも、彼女の子供の側面が行わせるわけです。
彼女は無意識に、ケネスとハサウェイを比較して、自分に都合の良い場面で使い分けていく。
そのことが彼女の処世術でもあったのでしょうし、彼女の背負う十字架の理由にもなります。
ハサウェイが苦々しくケネスに抱擁するギギの後ろ姿を見るのも
ギギを安堵させられるだけの包容力がないことを、その彼女から突きつけられている、
そのやるせなさでもありましょう。

そして、一つの人格に子供と大人が共存してそれがランダムに出現する女性に振り回される、
そこに男性が惹かれてしまうというのも、竹取物語からの呪縛なのでしょうか(苦笑)

こう言うことを論理的に把握でき始めると、富野作品がもう一段面白くなってくるのは興味深いものです。
MSの描写や戦闘シーンは、夜間戦闘の暗闇の地味の中に目立たせるような、
ビーム兵器の「閃光」や、コックピットにおける対象物の描写などの演出も興味深いものですが
人間関係の心の機微を考えられるのも、興味深いです。

一部は、新型のガンダムを空中受領することができたハサウェイが、
南国の強い太陽の日差しに照らされた甲板を歩くシーンで締めくくられます。

一見、明るい未来を予感させるような演出でありますが、マフティの抱える現実は、
新型のMSを受け取ったのは良いが、補給部品の半分も回収することができず、海中に沈めてしまい、
これからの新型MSの運用についても、随伴するMSのパイロットの練度にしても不安を抱えたまま、
「大人」であるケネスと対立していかなければならない、暗雲が立ち込めるものです。

こういった点においても、演出は、物語におけるその現実と反対を表現させています。

追い込まれていくマフティは、その活動を先鋭化してゆくしかないというのが、
ハサウェイの置かれた彼の組織の中での立ち位置でありましょう。
マフティの名を持つハサウェイですが組織の中での立場は、確固たるものではなく
彼もその名に相応しいと思われる態度を取り続けなければならない。
マフティのやり方が正しくないと、ギギの忠告を受け入れることができないのは、
彼の社会正義に対する欲望のためだけではなく、組織を運営していくためにも
彼には他に選択肢は用意されていなかったことになります。

これは、テロリストの組織だけではなく、営利目的としている企業の組織の体質にも
国家組織においても観察することができるのではないかと考えてしまいます。

このような思想を、巨大になりすぎた地球連邦政府という組織に対するテロリズムに落とし込んで
1990年代に表現をしていた富野由悠季監督の、物事の本質を切り抜いて、それを商業ベースの物語として成立させる手腕に気がつきます。
その富野監督が、資本主義経済社会の次の社会を模索するも、
やはり資本主義経済社会からは逃れられることができないが、
それを止揚するための手段は、人類はすでに手にしていると表現しているのが、
Gのレコンギスタであると私は考えています。

すでに手にしているものは、宗教であり、民主主義的な価値観である自由と平等、
それに自然を畏怖する生き物としての本能。

しかしそれらを飲み込み、排除して、「あたかも永遠に続いていくよう」に見えるのが
「資本主義経済」の構造の深さであります。
この「あたかも永遠に続いていく」様に見えることに耐えられなければ、
マフティのような先鋭化したテロリストたちの活動理由にもなりますが、彼らが活動できるのは、
地球連邦政府と同じ「資本主義経済システム」の上でのものになりますから
彼らのテロリズムの目標を達成したところで、社会構造の変革も変化も、
与えることができないのが「資本主義経済の仕組み」であります。

この一例が、ハサウェイが空中受領したΞガンダムがどこで製造されたかです。
月面の、軍事産業企業であるアナハイム・エレクトロニクスである以上、軍事産業企業が生き残るための社会システムを破壊することは、支援を受けているマフティには許されないことですし、求められていないことであります。
ゆえに、Ξガンダムがマフティに与えられるのと同じように、
力の均衡を作るために
連邦軍にもペーネロペーガンダムが与えられる。
この点から見ても、マフティは、地球連邦政府の閣僚を粛清し、地球人類全てを宇宙空間に住まわせるとの目標を達成することができないことが示されています。


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