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司馬遼太郎記念館、2021、3回目 [雑感]

河井継之助に関する資料展示が行われています。

中立主義、という言葉が今回は頭に残りました。




中立という言葉を、広辞苑でひいてみます。

中立
①いずれにもかたよらずに中正の立場をとること。「ーーの思想」
②いずれにも味方せず、いずれにも敵対しないこと。国際法上、国家間の紛争や戦争に関与しないこと。いかなる軍事同盟にも参加しないこと。「厳正ーー」

河井継之助は、この「中立主義」というもので幕末の長岡藩を存続させようと考え、その思想のもとで城下町が灰塵と化しためずらしいことだと、司馬遼太郎氏のメモが展示されていました。

私は、塩野七生氏の著作を好んで読んでいますので、歴史における政治に対して、
ロマンと情熱の前になすべきことがあるだろうと考えています。
これもコロンブスの卵のお話かもしれませんが、理想のない政治家は商人だとは、
司馬遼太郎氏のお話ですし、塩野七生氏も男性としての魅力のない歴史上の人物に対しても
冷ややかな態度であらせられます。

塩野氏の著作の薫陶を受けているかもしれない(笑)私が考えるには、
中立主義を取るためには、強力な武力が必要であろうということでした。
河井継之助もそれは承知していたことでしょう。ガットリング銃を購入し、
鳥羽・伏見の戦いで勝った官軍に対して猛威を振るったというのが歴史であります。

江戸時代人の教養というものは、どういうものであったのか。

欧州における産業資本主義経済を導入するがための、明治維新であり、
資本主義経済は、既存の社会にあるものを、資本の運動に都合の良いものは残し、
そうではないものは、排除をすることになります。
それは経済だけではなく、資本主義経済社会に生きる人間の心にも根を下ろすものでもあり、
この時の新政府のとった鳥羽・伏見の戦い以降の軍事力の行使は、金のない新政府に金を集めるためでもありましたが、その後の執拗なまでの会津藩への仕打ちというものは、都合の悪いものを排除する、資本主義経済の論理を無意識になぞっている行動にも思えます。
新政府軍にとって都合が悪かったのは、江戸幕藩体制の象徴でもあった封建的なもの、でありましょう。
それを色濃く残していたのが、会津藩であり、それが故に役立たない旗本御家人の代わりに
京都守護代として幕藩体制維持のための暴力装置となり、新政府に関わる薩長土肥の志士たちから
大きな恨みを買うことになった。

江戸時代の教養と明治の新政府が導入する産業資本主義経済社会との対立は、
暴力によって、機械力によって新政府が勝利を収めることになったのは、
両者の力関係を示しているのではないかと。

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