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リッピングしないCDは? [雑感]

今回のリッピング作業は、手持ちしているCDを全てHDDに入れてしまうつもりです。

今までは、ソフトウェアのアップデートで読み取り精度が僅かでも上がっていくのであるのだから
その度にデータをいちいち入れ替えることは手間なので、
主に聴いているCDだけをHDDに入れて、
それをUSBなりSDカードなりに転送して車で聴いていましたが
新しく導入したBDR-XS07JLの読み取り性能を目の当たりにし、
その精度に納得をして、手持ちのCDをリッピングすることに決めました。

この先は、その時のタイミングにあった読み取りの精度で良いでしょう。





リッピングするのにためらうCDは、尾崎豊です。

尾崎豊に対しては、世代に関する制約がありますので(謎)
フラットな客観的な考え方からは離れてしまいそうです。

今の私に、尾崎豊の楽曲は響きません。

それは、幻冬社の社長さんがどこかの本に書いていたように、
一緒に仕事をしていた尾崎豊の歌を聞いていないし、まだ聞くことはできない。
もし尾崎豊の歌を聴きたくなるような時は、仕事にうまくいっていない時だろう、と、
そのような内容に近い心情であります。

これは、尾崎豊が何にあらがって(抗って)いたのか。
そのことを想像してしまうと、子供の社会対大人といった対立構造を考えてしまいます。
この対立構造は、ロックもそうですし、資本主義経済社会を既存の社会に導入する際に
「巧妙に」利用された図式でありましょう。

そのやり方は、大人の社会を排除することを歌いながら、
資本主義経済社会の金回りに浮かれていくことになります。

若い頃は、排除することがどういうことかを考えることがなかったですし、今の自分は、
そのような若い頃の自分に排除される側の人間にも立場上、なっているとも自覚できます。
若い頃の自分に諭すようなことを言っても仕方がない、
遠回りでもそのような道を通ることでわかることはある、とも思えます。
ゲーテは、素直に年寄りの言うことを聞いて、自分たちがしてきた努力を踏み台にして、限られた時間の中で社会を先に進めるように努力を使え、と思っていたことでしょうし、それはその通りだと思います。

尾崎豊は無駄な努力をしていたのか、と考えるとそれは、彼はロック歌手として
スターになりたかったのだろうとも、この歳になって考えます。
社会に抗うとか、唾を吐くとか、きっとそういうことをしてこなかった人だったのでしょう。
高校を中退し、自分が卒業するはずだった卒業式の日にライブハウスでライブを行ったというのも、
ロックを歌う自分が、ロックで生活をしていく自分が、
ロック的な人生を送っていないことへの示しをつけたかったのかもしれません。

それは裏返せば、尾崎豊は普通の人だった、と言うことだと考えます。

私は、尾崎豊が社会と折り合いをつけた歌を聴きたかった。
そのようにも考えています。
いえ、折り合いはついていたのかもしれません。
ですが、彼の周囲が求める彼の偶像ではなかった。
ロックスターとして彼は、周囲から求められているとも思っていたでしょうし、
それが売れる条件だとも分かっていた。ですが、そこに尾崎豊はもういなかった。

彼については、コアなファンから当時の周辺の人々から
いろいろな逸話があるので良いでしょう。

私は、ファンの外縁部のほんの触り程度のファンだったはずです。

夜間高校に通っていた帰りの電車。
夜、乗客も少ない電車内で、SONYのカセットウォークマンにイヤホンを挿して
尾崎豊の歌を聞いていたことは良い思い出です。

それ以上でもそれ以下でもなくなりました。

淋しいことですが、私がこれから先、尾崎豊の歌を必要とする時の方が、
私の人生にとっては淋しいことであると考えています。

この記事を書いていて脳内に流れていたのは、シェリー 尾崎豊 でした。
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