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湿った話と乾いた話と [雑感]

資本主義を維持するためには、何が必要なのか。

この考えの前提は、先鋭化していく資本主義は、
自壊するプロセスをとる事で自らを拡大させる、そのような構造を持っています。

などと、大上段に構えておけば、どこにでも着地ができるだろうという事です(苦笑)



新自由主義経済、いわゆるグローバリズム化が進む世界の中で
資本主義経済社会を「維持するため」には、何が必要なのか。

それは今のところぼんやりと、宗教世界と江戸期の儒教とは、といったところに焦点を
合わせています。
私が考えたところで、社会に対して何をするでもありませんが、
自分の生活にどのように還元していくのか、という事を考えるのみです。

唐突ですが、明治期の日本軍人と昭和初期の日本軍人とは、まるで違う人種ではないか、
と、司馬遼太郎氏は回顧しています。

その理由として、明治期の日本人の多くは、江戸時代の教育、
朱子学の合理的な判断をする教育を受けていたからではないか、と推測されています。
明治期の軍人には、昭和初期の軍人に見られるような、華美な賛美をする軍令文はなく
「撃滅」などといった単語も、これはロシア艦隊との対馬沖での海戦において
秋山真之が使った言葉でもありますが、
軍隊として最終目標がなんであるのかが不明な軍令文などはなかったと言います。
「撃滅」とは、敵の戦闘集団を最終的にどのような立場に追い込む事で、味方の勝利条件となるのか。
秋山真之の場合は、文字通り「撃滅」が必要でした。
一隻のロシア艦船たりとも逃すことを許されない作戦目的でありましたから、「撃滅」という単語の
意味通りのものであります。
しかし、後世の昭和初期の軍人たちの軍令文には「撃滅」の作戦上の意図が理解できないものが
多くある。
相手を戦闘不能にするのか、もしくは戦わずに勝つのか、
それとも自軍の犠牲を考慮せずに文字通り「撃滅」するために作戦行動をとるのか。

昭和初期の日本軍人は、かような「湿った」考え方で戦争というものに挑んでいた。
明治期の日本軍人は、日露戦争において、相手をよく研究し、自国の限界も数理的に把握し
戦闘集団における勝敗のよりどころを、精神論におもねるようなことはしなかった。
二〇三高地攻略においては、
昭和初期の日本の軍人に見られるような悪癖がよく出ていた結果でもありましょう。

「池田が漱石に向かって語った話は、おそらく科学に関することだったでしょう。科学は明
晰で、誤差をいやしみ、方法さえ正しければ、正確な実験結果が得られます。
それに対し、文学はむしろ誤差を拡大して感じたり考えたり書いたりする世界であります。
漱石は誤差という下水道の泥の中に沈み込んでいるのを、池田と話すたびに、池田の化学
ばなしによって、明るい太陽の下に気持ちが持ち上げられ、心地よく乾かせられたのです。
このあたりに、明治末年、二十世紀初頭の代表的な知性(理科系と文科系)の明暗を見る
おもいがします。」

司馬遼太郎 義務について 232頁 司馬遼太郎 春灯雑記 朝日文庫

同じ時期に英国に留学をしていた池田菊苗と夏目漱石の
置かれた世界の違いによる差異を論じている司馬遼太郎氏の観察に、
氏と、戦後ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏との関係性を思い浮かべてしまいます。

それと同時に、昭和初期の日本軍人というものと、
明治期の日本軍人のことも考えてしまいます。

実際、どちらかの成分しかないという事がないのは、
生活をしている知恵で理解できる事です。
どちらかの成分が濃い状態、というのが人間にはある。
そう理解するのが生活というものでしょう。

作家の佐藤優氏は、その著作の中で、手紙でもメールでもその人の文体が変わった時は
恋人であるならば関係の変化が訪れる可能性が高い、
そうでなくとも何かしらの影響でその人の価値観に変化があった時だと言っています。

それは湿り気を帯びた文体から、幾分か乾いた空気を伴った文体になる、
またその反対も然りでありましょう。

文学であるならば、後者の方が、文学世界に与える影響も出てくるのでしょうが
政治や技術の社会では、乾いた空気を伴っている方がありがたい、と私は考えます。

と同時に、
この湿り気と乾いた話を恣意的に混合させて読む人を引き込むことが
フラット化した社会に対して、差異を示すことになります。

最初に結論を提示し、中間で湿った話が入って湿った話に引きずられると
最初に提示した結論とは180度違う結論に賛成するように誘導させられている。
もしくは、自己の問題であった、というお話を何かの責任にすり替える時にも、
この手法は使えます。

自己の問題の具体例としては、飲食店に入店して、自分の口に合わなかった料理が出てきたことに対して
店舗側の不備、もしくは自分の価値観と違う物事を一つ一つ指摘して、その味の原因につなげる批判の仕方です。
私が勝手に教わったことからを元に考えると、その飲食店の料理に口が合わなかったのは、口を合わせる事ができない自分に問題があるのか、自分の口に合うような看板と中身の整合性の推察に誤りがあったのか。もしくは、未経験の事象を見落としていたのか。
理由はこのように、自分の下した判断のいずれかになりますので、飲食店側に口が合わない料理を提供した原因を追求する必要がありません。
もしくは、口に合わなかった料理に対しても、その飲食店を選択した理由は自分にあるのですから、その理由に沿った内容であれば、料理が口に合うか合わないかは二次的なものになります。お腹が膨れればいいとか、あと数時間の活動に必要な栄養素を補給できれば良いなど、ものを食べる理由はあるわけです。

口に合うものを食べるにあたっては、すでに飲食店の軒先を潜る前から全てが決まっている事です。
目の前のものを美味しくいただくことは当たり前として、口に合うものを食べたければ、どのような労力を支払ったのか。私はそれを考えるようにしています。勝手に。

さて、非教養的な手法と発言でもって新自由主義のグローバリズムに対抗することは、
手取り早い手段ともなります。

資本主義経済と封建社会の制度との関係性。
このような論理を組み立てられるのも、実はある程度、
限られた世代になってくるのかもしくは地域性や職種に限られてくるのか。
自分の生活で考えれば、理不尽な社会の出来事というのは随分、減っているようにも思えます。
増えた方が良いか、というわけではありませんが
社会の理不尽を自分の生活から全て排除することが、是であるのか。

と、これは昨今の清酒の酒質にもつながっているのではないかとも考えてしまいます。

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