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父の詫び状、向田邦子 [雑感]

向田邦子氏のエッセイを好んで読んでいます。

最近購入した、「父の詫び状 向田邦子 文春文庫」を読んでいて
向田邦子氏の最期を想起させるようなエッセイもあることに
背筋に寒いものが走るのを覚えます。





著名なエッセイ集でありますので、私が思いつくような感想などは
他でも目にするような内容でありましょう。

ですが私は、真新しいものを見出すためにこのblogを継続しているわけでは無いので
私の得手勝手な読書感想文を書きます。

父の詫び状では、時間の経過が現在、過去と目まぐるしく転換しています。
しかし読んでいると、時間が行ったり来たりしていることを思わせないような構成です。
空間も、動いているようで動いていません。
玄関の三和土(たたき)から、ほとんど動いていません。
それは向田邦子氏の現在の住居と、幼少期の記憶にある三和土。
東京と仙台と、現実の空間的には大きく動いているはずなのに、
思い浮かべさせられる映像は、玄関の三和土から動きません。
話題が二転三転して、筆者と過去と現在と東京と仙台を巡っているはずなのに、
最後まで読むと、話の一筋の太さに、心がほっとします。
それは話題が転じているように見えて、実は、書き出しから出てくる伊勢海老を料れない筆者と
最後、子供に心根を言い出せない父親の、気弱に見せない気弱さが
繋がっている構成にもなっています。
これは、独身40代になっている私が読んだ感想です。
世代や家庭環境が違えば、また違う印象になるかもしれません。

父親の不器用すぎる愛情表現に哀惜の念を抱くことができるようになったのは、
向田邦子氏のいつからなのでしょうか。
このエッセイを書かれている年代は、現在の私の年代に近いはずであります。
向田邦子氏は、伊勢海老を料れない自分、飼い猫がカゴの中で四角形に押しつぶされてしまった夢を見る自分、映画で女性主人公が銃殺されるにあたって、銃殺をする兵士は複数いて、誰が処刑したかわからないように全員には実弾を装填していない話を引き合いに、それは兵士への計らいであろうと言います。
それは人への優しさと、自分の弱さを交えながら、父親に対しても、その弱さと、子供時分ではわからなかった父親の愛情表現や、大人になってもわかりにくい父親の愛情表現を思い出しながら、父親のその不器用さは弱さでもあり、その弱さは自分の生活にもこのように受け継がれていることを、読んでいる人にその絵を思い浮かべさせるような文章で綴っています。

現代においては、理不尽というものは社会から去勢され、家庭からも去勢されます。
理不尽なことを言う大人は、子供から、社会正義から排除される。
ではその去勢された理不尽のない’社会というものが、どれほどのものであるのかの担保は、
誰もしてくれません。
向田邦子氏も、父親の理不尽さがなければこのエッセイは書くことができなかったでしょうし、
理不尽さに腹立ちながら、
その理不尽な父親の振る舞いを、理解ができる時が来るとも思えなかったでしょう。
人権を尊重するとは、自分の権利を認めることは相手の権利を認めることだと言います。
では、その認めることができる時間は、その場その時でなければいけないのか?
そのようなことも考えてしまいます。

仙台の寒い朝の三和土で、酔客の粗相を掃除している母親のアカギレた指を見て、
父の仕事から受ける家庭への理不尽な負荷と、
それについて何も言わない母親に腹立ちながら掃除をかわる場面では、
思いやりと苛立ちと、感情というものは二律背反しているものだと、
幼少期の感情の記憶から導いています。
それは当時の父親もそうでありましょうし、当時の父親を思い出している著者の心情も
懐かしさと腹立たしさと、感情というものはごちゃ混ぜになっているものだと。

最後に仙台で暮らしている両親と離れ、東京での学生生活に戻るために父親と別れる場面から
東京の下宿先の祖父母の家に帰り着くや、先に来ていた父親の手紙を読む。
照れともなんとも把握し難い父親からの「詫び状」は、朱筆で引かれた傍線の
「此の度は格別の御働き」には、父親の、そして何かと反発をしていた筆者も
父親と同じ弱さと優しさを持っていることに気がついている、その思いが凝縮された一文に思えます。


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