SSブログ

清酒と資本主義 [雑感]

YouTubeを娯楽の時間潰しのために見るのも結構ですが、
無料で受けられる講座として考える向きもあるそうです。

早速その向きに私も習っていますが、
見つけるのも苦労がありますが
学べるべきものもあります。



ダラダラと長く書いています。
流行りに乗って、結論から書けば
ストーリーに錯覚させられることとは何か、ということを考えています。

さて、清酒の製造において、どのようなビジネスプランを選択するのか。

ナウでヤングな方法としては、サブスクリプションを活用して
醸造後三ヶ月の清酒を、代金先払いにて製造販売をするやり方。
この利点としては、お金の回りが早いということ。

既存の清酒製造ビジネスモデルは、設備投資も然り
酒を造って現金化するまでの時間が長い故に、資金が必要なこと。
これだけでも、清酒製造におけるハードルが高いことがわかります。
新自由主義的な経済観点では、そのようなハードルを無くすことが
資本の運動の効率化であると設定されているはずなので、
金回りを早くするためにも、先ゼニをいただいて生産をすると言う方法を
サブスプリクションと表現しています。それも自前で生産設備を準備せずに。
これも効率化であります。なんの効率化でありましょうか?

しかしながら、このやり方では清酒の本質に触れることができるかというと
短期日しか貯蔵していない商品を販売するのは、現状の清酒の製造技術の系譜からすると
その技術に歴史的な担保があるのかと、私などは訝しがってしまいます。

歴史的な担保がなくとも、製造者が求めている味を、
マルっとそのまま再現することができれば、技術に担保はなくても良いのですが、
ただし、その再現する味というものには、なんらかの担保が必要となってくるでしょう。

江戸時代初期の江戸の町の食事の味は、三河の味と当時の江戸に移り住んでいた人たちとの
ハイブリッドだという歴史的な観察には、なるほどと得心できました。
なるほどというのは、清酒というものは食事に合わせて味の設計がされていた、と。
ゆえに食中酒として、製造技術が発展していた。
その系譜の先に、現在の技術が展開されている。
わたしはそのようにみて取っています。

その食中酒たる江戸時代に、私の居住地域周辺で、(検閲削除済み)が行われていたのも
江戸の食の味が、三河とのハイブリッドであったということから
求められている酒の味わいというもののベースになっていたかもしれないと。
灘の味わいの源流というのは、三河にあったと考えるのは、
徳川家康が江戸に三河の人材・文化をごっそりと持っていったということから、
私は妄想をします。
しかしながら、私としては、輸送手段に都合が良かった土地柄であったことの方が
割合は高めだと考えています。

そして、江戸時代においても「純米酒」というものは、ほぼ作られていなかった。
その理由は、製造に使用する木桶による木の香りが酒に移ることへの対策ゆえに。

私はアルコール添加について、求めている味を作り出すために必要であれば気にならないタチです。
それは、作りが何であろうが、作り手が求めた味わいを、
目の前の環境の中かからいかに再現をするのか。

その味わいを再現するのに、
生酛であったり山廃であったり速醸という製造技術の選択をするだけでしょう。
生酛でなければ出せない味ならばその技術でありますし、しかし生酛でなくても
同じ味わいを出すというのが技術の進化です。
マルクスの資本論における産業の技術革新という命題を持ち出さずとも、
古窯における陶邑窯から猿投窯への窯業の主力の変遷を想像しても、
酒造業が技術の進化というものに、無縁であろうはずがありません。

山廃から速醸の技術へと技術が歩みを見せたのも、
資本家の利益率の向上を目指したものでありましょうが
技術者からの観点から考えれば、
山廃よりも手間も少なく、早く醸造ができる技術を開発する目的は、
製造コスト削減よりも、同じ味わいを作り出す新しい技術の開発であったことを私は想像します。

これをしなければ、資本主義経済社会において生き残ることができない。

その切実さは、現代の新自由主義経済社会よりも切迫だったかもしれません。
さらには、資本主義的な思想が先鋭化しすぎると産業が滅ぶということも
マルクスの資本論を借りずとも、江戸期の教養を持っていた人たちは知っていたやもしれません。

日本で三番目に古いと言われている酒造メーカーでは、
お客様が少し頑張れば買える価格設定をすることが家訓に刻まれているそうです。

製造原価を考えれば、ナン万円もする(一万円〜)清酒のその味は、本当にその価値があるのか。

そのような資本主義経済の荒波に耐えうるものなのか。耐える必要があるのか、
これは経営者としての思想の問題になってくるのでしょう。

それを昔の人は、消費者が少し頑張れば手が届く価格帯、ということを示して戒めていた。
そしてその酒蔵が作っているのは、昔の酒の味の再現。
毎年、その年の出来具合によって違う酒米に合わせた酒造りをするために
特定名称酒を名乗ることができなくなっても、
最後に求めている味わいを変えないための選択をする。

逆に言えば、特定名称酒を名乗るために酒の味が毎年違っている。
それをよしとするのか、酒の味を揃えるための技術が清酒の製造技術である、
かもしれないと私は妄想をしています。
その私の妄想からは、酒の味が毎年変わるというビジネスは、
清酒の製造技術の本質であるのかと。

そこには、純米酒であるとか、山廃であるとか、製造方法に固執するのではない、
求める味わいを再現するために技術を駆使する。
資本の運動で見れば、短期的には効率が悪いはずなのに、中長期で考えると
資本主義経済社会の論理に実に真っ当に従っているはずなのに、
技術の革新による淘汰に巻き込まれないでいる。ゆえに資本の運動が長く続けられる。

自動車業界も、支払いのサブスクリプション化をすることは金回りの効率が良くなりますが
それが本質であるのかどうか。
SF小説や漫画の世界のように、自動車というものが、
移動手段として社会インフラとして必要とされる、社会で共有するもの。
といったものにカテゴライズされる日は、遠くないかもしれません。
これであれば、バッテリーの所有権を気にせずに、交換し続けることができます。

自動車の個人所有の減少に伴い、
自動車を所有するということは、ステータスとしての付加価値が
今まで以上に高まることになるでしょう。
その時に、自動車としての本質を外していない製造技術を持っているのかいないのか。
それは、どのような自動車が「美味しい」のか、知見を持っているか否かに委ねられることでしょう。

清酒も然り、どのような清酒が、金回りの仕方が「美味しい」のではなく
口に入れて「美味しい」ものであるのか。そのような知見をどのようにして継承をするのか。
そして消費者側も、「美味しい」ものとは何かを、受け継いでいくことができるか。
これも難しい課題でありましょう。

話を清酒に戻します。
その美味しさに、地域性が出て、それはその地域の食材や調理された味付けに大きく依存する。
地酒というものは、その土地の食事の味わいに寄り添ったものであるのが基本であろうと。

どれが一番ではなく、この地方はこういった食の味わいゆえに、地酒はこの味わいと知ること。
多様性を認めるということの本質は、ここにあるのでしょう。

清酒の役割は食中酒である、その在り方をどのように捉えるのか。

と考えていくと、私は随分ともったいない到達点を頂いているのだとわかります。

そして、ここまでの論理を飛躍することになりますが、詰めて考えていけば
清酒造りとは発酵文化である、ということにも辿り着くことができるはずです。

IMG_2635w.JPG
nice!(9) 
共通テーマ:自動車

nice! 9

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。