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愛知県あさひ遺跡ミュージアム [Polo AWCHZ]

開館して間もない、あさひ遺跡ミュージアムへ行ってきました。

20年ほど前、仕事で来ていた隣の区画にこんな立派な建物ができているのに驚きです。



弥生時代前期から古墳時代の前期まで、東海地方最大の集落であったあさひ遺跡。

訪ねてから知ったのが、その時代の交易地の拠点だったということです。

人間というものは、地理的制約における要地を今も昔も変わらない計算をするもので
清洲JCT周辺は、弥生時代における日本各地への交易拠点だと。

無論、日本という枠組みは現在の人間の都合による国境線ですので
中国大陸、朝鮮半島を含めた東アジアの地域の一つ、として考える必要がありましょう。

日本海側から本州を上にして地図を見れば、敦賀から琵琶湖の東岸を抜け、関ヶ原を越えれば
名古屋市北西部に至ります。
大和政権の存在が大きくなるまでは、
日本海側沿岸ルートが朝鮮半島、大陸側との主要な交易路だったと言われますから、
あさひ遺跡の地政学的な要衝は、敦賀から太平洋側へ抜けるためでもあったと想像をすると
ますます興味深く思えます。

私が驚いたのは、埋葬されていた銅鐸が当地で製作されていたものと紹介されていたことです。

弥生式土器の延長線上でしかない製造技術だと思っていたのが、
金属器を鋳造する施設、技術を有している一帯であったということです。
まさしく交易地として栄えていたことを想像させてくれます。

無論、本州に居住していた人間だけで製作することはできないはずなので
半島及び大陸からの技術移転が行われていたはずです。
技術だけではなく、材料の調達、それらを加工する産業として
財と労力の集積ができるだけの権力支配社会が存在していたのは、想像だにしていませんでした。

海外との交易も盛んだった土地が、ある年代を境に縮小していきます。
その理由がなんであるのかは、展示類の説明からは把握できていませんが
人が住まなくなった土地は、元の湿原に戻っていったというのも、侘び寂びの精神を感じます。

交易地として栄えていたのですから、より時代に求められた場所に
人の居住地域が移ったと考えるのが妥当でありましょう。

興味深く観覧させていただきました。

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