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司馬遼太郎記念館、2020年、2回目 [雑感]

司馬遼太郎記念館へ。

コロナ禍騒動からは、初の訪問です。




展示物が新しくなったこともそうですが、
動画サイトにて不意に見た動画で、初代会津藩の藩主の経済政策に興味を持つことができたので
司馬遼太郎氏の会津藩に関する書籍を購入しようと、訪れました。
本屋で買えばいいのですけれど(苦笑)

今回は、城シリーズの展示となっています。
司馬遼太郎氏は、お城を見るのが好きすぎて、好きすぎる故に、
他人にはさして興味がないように見えるように振る舞ってしまうほどのものだそうです。

そして奇遇だったのが、上映している作品が、幕末の会津藩に関する内容であったのに
自分の引きの強さに感心をしてしまうま。

マルクスの資本論の解説本を読み進めていく中で、マルクスが観察した資本主義の内部構造を
歴史の出来事に当てはめていくと、なんとなく見えにくかったものが見やすくなるのではないか、
そういった印象を持つようになりました。

NHK大河の「麒麟が来る」の明智光秀の本能寺の変も、織田信長への私怨だけで動いたのか。
これを資本論にある資本主義の内在的論理で観察をすると、
光秀は、資本主義を導入しようとした信長への、保守的知識人として暴力的な役割を歴史に担わされた、
と考えることも辻褄が合わないことではなくなります。
資本主義経済社会は、既存社会、慣習や伝統に則って維持していた社会に対して、
経済合理性に合わないシステムは、排除することで社会構造を変革する。

天皇家による武家の統治システムというものに、安定感を感じていた光秀が、
日本の社会を中世から近世へと変革した織田信長の取りうる政策が、
政治・経済としても
天皇家を必要としない統治システムについて、本能的に受け入れることができなかった。

ドラマでは、このことへのフリなのか、光秀は斎藤道三の政策であった、
戦国時代の経済から貨幣経済への導入に対して、進歩的な理解を示します。
そしてその進歩的な政策に反対したのは、道三の息子でありました。
光秀は、最終的に道三につくことを選択し、敗れ、美濃を追われることになります。
信長の経済政策も、貨幣経済への移行が無論含まれており、資本主義の台頭は既存の社会を
排除、もしくは自らに都合の良いシステムだけは残すこともする変化をもたらす、
そのことを知識として理解していたのか、それとも光秀の本能的な防衛反応であったのか。

結果、過去に裏切ることになった道三の息子の立場に、光秀が自ら立ち戻るというのも
このドラマの、フリとオチの伏線回収の面白さになっているように思えます。

このように光秀の、保守的知識人としての自覚そのものが、
「本能寺の変」につながる、と考えてみるのも、論理的にも筋が立ちそうです。

これと同じく、幕末の会津藩の立ち位置というものも、少しは理解できるのではないかと。

戊辰戦争は、1868年、マルクスの資本論の第一版は1867年。

資本主義経済社会システムを導入するという事実を観察したマルクスの論から、
明治維新とは産業資本主義経済システムを導入することであったと考えれば、
なぜ新政府が、会津藩を目の敵にしなければならなかったのか。
なぜ会津藩が、新政府から目の敵にされなければならなかったのか。
新しい社会システムの先兵となった側と、旧来のシステムから抵抗する役目をもたらされた側と
両側からの論理が導き出すことができるのではないか、と妄想をするのも楽しいものです。

自粛期間中、さして退屈をしなかったのも、一人遊びで自己完結できる生活スタイルだった、
ということが強く影響しているのでしょう。

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