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JOKERにつながるもの [雑感]

愚行権というものが、映画「JOKER」で表していた、
社会の不寛容と強く結びついているのだろうと。
社会の不寛容というものが、資本主義経済の先鋭化によってもたらされているというのも
江戸時代の日本には、変わり者の存在できる社会の枠があったと、司馬遼太郎氏は述べています。
愚行権、自由というものが、民主主義とは別のものであることが、これでもわかります。

日本において、「変わり者」の枠が明らかに無くなったのは、昭和以降のことでしょうか。

平成の時代においては、「変わり者」の社会の枠はどれほどだったのか。

資本主義経済の導入において「変わり者」の存在が、効率を落とすものであれば、
新自由主義経済においては、排除されていくものでありましょう。

コロナ禍騒動に至って、人々の意識の中に、隔たり、を作ることへの抵抗感の消失を危惧します。

川向こうの隣の県では緊急事態宣言が出ているから近づかないでおこう。

この考えは素直で、単純なものです。

ですが考えの視点が、人間社会の行政の都合上で分け隔てられた区分が、このコロナ禍騒動に対して
どこまでの有用性があるのかを考えれば、感染リスクというものは、行政区域の区分ではなく、
生活圏においての区分でありましょう。
そのことを考えられない、システマチックに居住地域の枠組みを作ってしまっている。

無意識に、社会の枠組みをそういうものであるからと受け入れている。

コロナ禍騒動については、資本主義経済社会の脆弱性をついてきたものだという評価もあります。
人間が、経済活動を効率よく行うために、
社会をコンパクト化し密集地域を作ってきたものに対して、
コロナウィルスというものがピンポイントに効果を上げるようだと。

それでは、コロナウィルスによって資本主義経済社会を覆すような
構造変化が訪れるのか。

私は、訪れないと読みます。

人類社会は、コロナウィルスもさらにその次のウィルス禍も、
資本主義経済社会の構造を転換せずに、乗り越えていくことでしょう。
ビジネス展開の新しい展開があるのか?

それについても私は、世の中に一切の新しいものはない、という言葉を選ぶように
新しいビジネス展開ということは起こり得ない。
すでに過去に行われているビジネスプランが、再生してくるのであろうと。

そして、商取引の本質が変わることもないであろうと私は考えます。

枠組み、という単語からビジネスプランを(意識高い系の人々の好むような)想像をすると
地方という言葉を思い浮かべます。
大きなストーリーというものに対しての差異を見つけることで、
ビジネスプランを構築していくとするならば、
現在のコロナ禍騒動(withでもafterでも結構ですが)の先を考えるのは、
コロナ禍に実際に不利益を受けた都市部と、その都市部の騒動に巻き込まれている感のある地方。

地方による「これまでとは違ったビジネスプラン」。
そうなると、ビジネスモデルとしてパイの大きさも必要となる上に、隔たりというものも意識をする。
小さなEU圏、共同体としてのビジネスモデルを作り、地方対都市という考え方をするのは
おそらく、彼らの精神が落ち着くところになるのでは、と、私は想像をします。

この想像のもとは、マルクスの資本論にある「商品」の発生にあります。

共同体と共同体の間から生まれてくる。

その共同体のパイの大きさが、彼らのビジネスプランの効率の源泉になりましょう。

あくまでも資本主義経済社会の構造の上で考えているのに、
それが新しい社会であると言えるのか。
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