SSブログ

変わり者 [雑感]

小林秀雄氏の著作、考えるヒントを読んでいて、得心できることがありました。

読めば読むほど、読み応えがある不思議な本です。

歴史と題された随筆の中で、
「変わり者」という言葉が世間でどのように使われているかを考察しています。

教養は、社会に通念に、だらしなく屈するものだが、実社会で訓練された生活的智慧は、社会の通念に、殊更反抗はしないが、これに対するしっかりした疑念は秘めているものだ。変わり者はエゴイストではない。社会の通念と変わった言動を持つだけだ。82頁

この一文で、今、私が興味を持っていることについての解説がなされてもいます。

変わり者を、「ぶる」人たちの言動を目にしていて、彼らは何を持ってそのようにしているのか。
合理的なものに対する反抗なのか、それとも社会の風潮に対する反抗なのか。
これはロックなるものへの観察からも引き出せますが、反抗しなければ自立しないとなれば
それは不安定なものでありましょう。

しかし、小林秀雄氏は「変わり者」は、社会の通念と変わった言動を持つだけだと言い、
それは殊更反抗しないと言います。

では、なぜ「変わり者ぶる」人たちは「変わり者のような」行動の選択をするのか。

世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない。附き合いによってである。附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由がどこにあるか、と。そこで、世人は、体裁上、変わり者という微妙な言葉を発明したのである。83頁

この逆を考えれば、「変わり者ぶる」人たちの意図しているところは、
人との関係性をそこに見出したいからであろうと。
自分が「変わり者」として認められることは、人間関係を作ることでもあると。
ですが、小林秀雄氏は「附き合ってみて、世人は知る」と表現します。
逆説は成立しないでありましょうが、そのような錯覚もあるというのも人の感情でありましょう。

ネットの世界と、現実の世界と区別する必要があるのかないのか、私は知りません。
ただ、この「附き合ってみて、世人は知る」、このことから考えると
二つの世界は区別されなければならないと、私は至ります。

炎上案件というものがどういうものかは、私は経験がありませんが
そのような中で、上記のことを混同していることが、事態の発端ではないかと。

社会の通念と変わった言動を持つ、そのことだけが焦点に合って
殊更反抗するような態度を持つのは、「変わり者」ではない。
小林秀雄氏の文章から、私はそのように読み取りました。

この随筆は、昭和34年、1954年に書かれたものです。
JAZZはレコードにもされていましたが、
英国において、資本主義経済を普遍的に広めるための道具としてロック音楽なるものを
ビートルズがひっさげる前の時代のことです。

IMG_2521w.JPG
nice!(7) 
共通テーマ:自動車

nice! 7

得体の知れないスケール除去、手習 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。