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ロックというものからの解脱 [雑感]

ロックとはなんぞや、と。
それは、欅坂46のセンターを務める女の子に
良い年したおっさん連中が、彼女を「ロックだ」と言っている、
彼らのいう「ロック」とは、何を指しているのか。

そんなことを考えていると、読んでいる本の中から
「ロック」なるものへの処方箋が出てくるわけです。

それも、「ロック」という言葉が出てくる前に書かれた書物に。




大人たちが言う、日本の音楽業界に身を置いている人たちが言う、「ロック」とは
どう言うことを言っているのか。

それは、社会の良識に対する反逆、ではなかろうかと想像しました。

これはこうだから、あれはあぁだからと言って制限をされることに対しての反逆は
自由への手段なのか、それとも左派インテリの妄言なのか。

しかし、社会の良識と言われる類のものが、
なんの意味もなく人類社会に存在していたわけではなかろうと考えるのは、
私の思考のごく自然な成り行きです。
全員でなくとも、社会で多くの人がその考え方をすることによって、
社会を成立させていることへの反逆は、
大きく引いて考えれば、その国や地域に、人間が寄り添う人数の単位が少なくなればなるほど、
今まで必要であったために残されてきた、社会の良識が必要でなくなるわけです。

ロックとは、戦争や飢餓、自然災害が身近にない限りでは、インテリの方々の玩具なのか。

私は、ヴィヴィアン・ウェストウッドの言葉が好きです。

自分の人生にもっと責任を持て。

この言葉が好きなのは、責任を「もっと」持て、と言っているところです。
自分の人生に責任を持つのは当たり前、その先の「もっと」持つことによってでしか
何かを成し得ないのではないかと、私は考えます。

個人主義とはとの対談の中で、小林秀雄氏は言いました。

私は他人が心配しないような人生を早く送れるようになりたい。

自由勝手気儘に生きるのは、実はメソッドがあります。
人との約束を基本的に、守らない。すれば、周囲からあなたは自由な人だと言われます。
小林秀雄氏の言葉は、個人主義を、他人が心配しないような人生を作ることが
前提だと私は受け止めました。それからの個人主義であろうと。

この2人の言葉は、人生というものについての共通した理解がある。

作り上げることも、「もっと」責任を持つことも、それは他人に心配をされない基盤を作ること。
それからの「個人主義」であろうと。

ロックと個人主義とは、親和性のある考えなのでしょうか。
ロックというものを考えていると、個人主義というものについても考えてしまいます。

18歳から26歳頃までの、社会に出た若者たちが、社会に対しての疑念や不安を覚えて
人生に逡巡をする時があると、ある海軍士官は自分の息子の生活態度を観察して言います。
これは戦前の話であったはずです。
この若者の衝動の捉え方は、現代の大人たちのいう「ロック」を言い表しているのではないか。
私はそう考えました。

ビジネスとしてロックというものを回して行くとなれば、社会に出るまで待つ必要もなく
何も判断ができない(知性的に)若者に、ロックという不安定な材料を与えているのが
現代のビジネス「ロック」、と考えるのは、私がゆがんでいるからでしょう。

いまの(良い年をした)大人たちが考えるロックは、どういうことだろうかと考えています。

欅坂46のセンターの役目を果たしている子について、「ロック」だといっているのは、
その始まりは、ここ10年、日本の音楽業界に「ロック」をしている人間が出ていない、
その干上がった音楽業界に潤いを(=利益)与える絶好の偶像が現れたと彼らは判断して、
笑わないアイドルだというグループのセンターを「ロック」だと言う。
そこに「ロックだ」と言う表現をするのは、そうすることで利益があると考えるのは
理詰めで分かる話です。
私も彼らも、資本主義社会の中で生きているからです。

ロックとは、伝統主義社会構造に、
資本主義経済思想を刷り込むための「道具」になったのではないか。
うまく利用されたというのが、ロックの歴史なのだと私は考えています。

ですが、これでは私が最初に疑問とした、
日本の大人たちの言う「ロック」とは何か、の解答ではないでしょう。

資本主義を社会に浸透させるための道具としてのロックと、
それを無意識に取り入れた世代の人たちのリバイバルのような
「彼女はロックだ」という表現とは、同じなのか。
社会の良識に反逆することがロックの本質なのか。
社会を壊すことがロックの本質なのか。
では、壊れた社会の後には、ロックは何をするのか?

私はロックを否定するつもりはありません。
ただ、ロックというものはなんなのか、と考えています。
そしてその答えは、とうの昔に、ロックというものが生まれる前に出されていたと
私はそう判断しています。

それは前出した一文です。
「社会に出た若者たちが、社会に対しての疑念や不安を覚えて人生に逡巡をする時がある」

それを乗り越える術は、社会がすでに有していることでしたし、
その術をロックは破壊をし、破壊をした後の社会は、
ロックを語る大人がビジネスとして存在をする。
それだけのことだった、のでしょう。

見城徹氏の著作の中で、尾崎豊とともに仕事をしたalbumを今は聞くことはないと書いていました。
そのalbumを聞くことがあるとすれば、それは私が仕事に対してモチベーションを
保てていない時であろうとも。
自分の仕事を続けている間は、尾崎豊の歌は聞くことはないと私には受け取れました。
その理由が、上記の文章がロックというものを捉えているのだと私は考えます。

社会に逡巡する時もあった、しかし今は、その社会の流れを作っている側の人間であるし
仕事というもので社会に関係性を持っている社会人である。
その社会に逡巡をするということは、仕事に対して自分の思いをごまかしている時であろうと。

私が、20代から尾崎豊の歌を聴けなくなった理由を、ロックとは何かと考えながら
知ることができたような気もします。

題名を、ロック、と、解脱、の二つの単語を使いました。
解脱とは、束縛から離脱して自由になること、現世の苦悩から解放されて絶対自由の境地に達すること。広辞苑 第四版 岩波書店

ロックとは自由の意味もあったはずなのにと、題名を考えながら、
私はロックと自由との関係性を
相反しているものに捉えているのだとわかりました。
ロックは自由じゃない。ロックでは自由になれない。
そんなことは大昔の人も考えていたことでした。

結論じみたことは書きません。私にはわからないことなのかもしれませんし、
自分の人生は「ROCK」である、と言わない自分でこれからも良いのだろうと思えます。

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