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オーディオシステムの役割 [雑感]

今読んでいる、

この人を見よ 小林秀雄全集月報集成 新潮社小林秀雄全集編集室 編 新潮文庫

この本は、小林秀雄の全集についていた、当時の関係者、著名人の
小林秀雄との間柄の随筆の集まりです。

全集も欲しいものですが(苦笑)
その付属も、おおいに読みごたえのあるもので、面白く読み進めさせてもらっています。

その中に、オーディオマニアには知り渡っている?名前の持ち主が現れました。

わたしとしても、こんなところで見かけるのか、と、縁の巡り合わせに苦笑い。


五味康祐なる人物が、どのような人物なのか、詳細は知りませんし
知ろうとも思っていません。

ただオーディオ業界にとっては黎明期から、著名な方だそうです。

小林秀雄氏の観察眼、平たく言えば感性の正しさ、というものを信用している私としては
この五味康祐なる人物の背景に見える、オーディオ業界の黎明期の本質を
小林秀雄氏のステレオに対する姿勢から、少しは読みとれるのではないか、と考えました。

ドイツの音響メーカーのステレオを、日本で数少ないうちの一つを持っていた
五味氏の宅に、ステレオを聞きに行ったところからはじまり、
そのステレオの音を聞いた小林秀雄氏の感想を、五味氏は
「これは、演奏会場でもっともいい位置で聞く音だ」と述べられたとあります。

多分、とは非常に遠慮がちに書き出します。それは、わたしが音楽再生装置について
なんの見識もあるわけではないからです。
が、小林秀雄氏は最初に「・・・なるほど、好い音だ」と始まり、モォツァルト、ベートーヴェン
などを聞かせた後に、上記の感想を述べられるわけです。

そして五味氏は、この小林秀雄氏の感想について、
このステレオメーカー、ドイツの音響機器メーカーの技術陣が目指していたのは
コンサート・ホールのどういう位置で聴く音に近づけるかということだったと、後日知ったことだと
告白しています。

小林秀雄氏のステレオの音を聴いた感想は
昨日今日レコードを聴いた人に、これはわかることではない、と述べられています。

オーディオというものについて、現代において、これが最良のオーディオシステムである、
という解答がなされていないことについて(一部を除く)
私は、素人なりに疑問に感じていました。
きっと、何らかの機器の組み合わせ方に正解があり、その正解というものは
誰が聴いても直観することができる、普遍的なものではないか、と。

オーディオシステムとか、ステレオ、と表現すると本質がぼやけているのかもしれません。
音楽再生装置、と考えるのであれば、畜音された音を再生する、
再生効率のもっとも優れた方法というものが確立されているのではないか、ということです。

良い音とは何か、その基準はなにであるのか。

五味氏のこの随筆にそのヒントがあります。
1950年代か60年代の、このドイツの音響メーカーの技術陣が目指していた
コンサート・ホールのどういう位置で聴く音に近づけるか、ということが、
良い音=再生効率が高い音、ということの、普遍性に高い基準として考えられると、感じます。

つまり、生の楽器の演奏を、コンサート・ホールの、もっとも良い位置で聴いた音を
音楽再生装置で再生することができれば、それが音楽再生装置における再生効率の優れた方法を
有していることになりますし、当時の技術者が目指していたことは
恐らくそれ以上でもそれ以下でもないのでしょうから、音楽再生装置の本質は、ここにあるのではと
素人ながらに考えます。

音楽の再生の役割では、音響が8割(正確には7割5分から8割)としている考えを
わたしはこれ良しとした自分の直観と良心に従って、同じ道をたどろうとしています。
そこでは、この再生システムであるならば、このような音が出ます、という
普遍的な解答を明示しています。

普遍的という事を分解すると、そこに書いていある機器を揃えて、同じように接続すれば
誰でも同じ音を再生することができる。
その音は再生効率が高く、その再生効率が高い音、というものは
どういうものであるかというと
小林秀雄氏の「これは、演奏会場でもっともいい位置で聞く音だ」ということにも繋がるのだと思えます。

小林秀雄氏は決して、再生された音の良し悪しを評価しているわけではありません。
目の前のステレオセットから再生されたレコードの音を聞いた音を、偏見なく評価されたわけです。
そしてその評価は、オーディオというものの役割の本質を指摘しているものだと、私は感じます。

現在のオーディオ業界の始まりというのも、この五味氏の随筆から読みとることができそうです。
五味氏は、音をいじくる事に楽しみを覚えていたのです。

新しい部品を取り付ければ音は良くなるという大義名分がわたくしにはあったので・・・・

これは小林秀雄氏宅にあるステレオの面倒を見ていた五味氏の文章です。

時代は1950年代後半。
ステレオ機械の進歩というものが、著しくはなやかにあった時期なのかもしれません。
確かに、音の変化があったのかもしれません。
ただここで注目したいのは、五味氏は何か目標としている結果があって、それに対して
部品を取り付けているというわけではなさそうです。
シンプルに、新しい部品を取り付ければ音は良くなる、と、信じておられたというのが
現代にまで続いてしまったオーディオというものについての価値観の歪み、のように思えます。

音が良くなるということは、なんなのか。
五味氏の他の文章を読めばお考えがわかるかもしれませんが
ここではあえて追求しません。

現代の環境で言えばCDプレーヤーがエラー訂正をしているしていないとか、
そういうことはどうでもよいでしょう。

再生効率が優れた、というものが、CDプレーヤーであるならばそれで良いですし
ですが、どうもCDプレーヤーというのはその役割を果たせていなかった、ということが
この10年のPC機器の性能の発達と価格の低下で
明白にされている、というのが素人の観測です。

再生効率が優れたオーディオシステムであるかどうか、ただそれだけで十分だと思いますし
オーディオ黎明期で、ステレオというものをイチから造りだしていた人たちの目的も
演奏会場で聞ける音を、音楽再生装置で同じように聞かそうとした、という事実だけで
オーディオというものに与えられていた本質的な役割というものが示されているように思えます。

高音域がもう少し伸びが欲しいとか、音に艶がほしいとか、これは評価軸でもなんでもなかった、と
素人には思えてしまうのです。

そして、オーディオ業界の流れとして
個々人の気に入った音を再生するためのシステムの構築、という思想があるようなので
再生効率の低いCDプレーヤーの音が気に入っているのであれば、それはそれでよい、
と言える事です。

所詮は音です、人が生き死にする自動車とは違って
ステレオセットの性能で、人が生き死にする事に直結するわけではありません。

否定もすることもありませんし、肯定することもありません。

ただ、人の耳が聴くことができる、良い音、というものについての普遍的な価値は
その再生効率の低いステレオセットからは得ることができない、という事実。
気に入る音を出すためのシステム、という考えでは、ステレオシステムの本質には
たどりつくことができないという事を感じます。

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