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清酒は暗い世界の酒 [清酒の面白み]

とある本に、日本酒(米を醸した酒)は暗い酒のイメージを背負っていると。

恨みの酒、嘆きの酒、悲しみの酒、失恋の酒。
昭和歌謡の題材に出てくるような歌詞とリンクするのは、
その時代を象徴しているからでありましょうか。




その暗いイメージを持った日本酒の消費量が行き詰まり、誰もがこのままではいけないとわかりつつも、規模として売れているので生産者もお金が回っていたバブル経済期。
バブルが弾けて本格的に清酒の消費量が激しく落ち込むはずですが、具体的に変化が訪れたのは5%へ消費税率が増率された時だったでしょうか。

2000年以降の動きは、なんとなくにしても理解できるとして、昭和の時代の動きを見ることができないかと本を探していました。

その本には、日本酒は暗い酒であり、社会にそのような酒も必要だったと書かれています。

NHKの朝の連続TV小説の中にも、震災で家族を失った父親がアル中になっているシーンにおいて
ワンカップを手にしているというのも、日本酒に抱かれている「負」のイメージでありましょう。

そのような人生の暗い時に、日本酒は寄り添ってくれる役割を果たしていたが、同時に負も持つようになった。

昨今の、「ナウでヤングな」と思われる酒質の清酒を口にしてイメージをするのは、
明るい場所で、賑やかな音楽と会話に包まれている空間です。
社会の暗い部分を背負っていたお酒と同じなのかと考えてしまいます。

今そのような、人生の暗い時間に寄り添ってくれるアルコールというものはあるのか?
と考えると、随分とお酒も明るくなったようだとわかります。
せめてウィスキーあたりがその役割を「まだ」担うことができるでしょうか。

社会を明るくすればするほど、同じように影ができて、暗闇も濃く深くなっていくようであろうと、
私は考えてしまいます。
その暗闇に寄り添ってくれるものというのは、社会にとって無益であるのか。

お酒は、人間社会の潤滑油であろうと真面目に考えていますし、コロナ禍後のお酒の役回りは本質に回帰する、それは過去から連綿と続いてきたことでもあろうと考えています。
お酒はもっと人と寄り添える。コロナ禍で私が考える事ができた事です。
と同時に、なぜ禁酒法というものが社会に存在したのか。100年前の国際社会の流れとしての禁酒法ということも私は考えてしまいます。
現在の自然環境保護の概念の応用で、再び着目されかねません。流石に歴史の反省で、社会の誰の有益ではなかったことがよく分かりましたから何か形を変えて現代に出てくることも考慮すべきことでしょう。となると100年後、今のCO2排出悪説がどのように評価をされるのか現代の正義感でしか分別しないことが正しいのか、分かったものじゃありません。
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