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今と昔のバランス [雑感]

向田邦子 無名仮名人名簿を読んでいます。

氏のエッセイは、今と昔に向き合うバランス感の良さに、いつもうなされます。

私は向田邦子氏のこのバランス感に惹かれています。





向田邦子氏のエッセイには、自由と封建的なもの見方と、そのバランスの良さを感じさせられます。

そのバランスはどこからきているかと考えると、向田邦子氏の幼少期における父親の存在が
大きいのだろうと、読んでいて気付かされます。

家父長制の名残りを持った幼少期。
現代においては、子供の人権を無視していると通報されそうなものですが(毒)
その封建的な家庭に浴していたからこそ、向田邦子氏のバランス感、それはやや個人主義的な傾向を持つ封建的な社会通念というものが、生まれたのだろうと。

これが現代においても、向田邦子氏のエッセイが持つ魅力なのでしょう。

個人主義という考え方を自律させるには、封建的な社会というものを身近にもっている、
もしくはもっていた経験が必要になるのではないかと、最近考えています。
個人主義、それ自体では自立(自律)した思想になり得ないのではないか。
となると、ある特定の世代から下の、自分も含め、世代における「自由」や「個人主義」などの近代的、さらには脱近代的な思想というものは、非常に脆弱であろうと。
ポストモダンが脱近代の役割を担えなかったというのも、自ら出かけた梯子を自ら外す、と、佐藤優氏が評したように、自律するだけの思想ではなかった。何かに反抗しなければ、自分を律することができなかったからだと、私は考えます。

今風の言葉で言えば、「丁寧な生活を送る」と、
現代人が失ったと思っているものを、向田邦子氏のエッセイの向こうに見ているのではないか、
と、私は考えます。

封建的な社会の仕組みを排除することが、資本主義経済社会の一つの役割であります。
その役割を担うのが、個人主義の考え方でもありましょう。
個人主義というものは、近代化の先頭に立っているのかもしれませんが
その個人主義の殺伐さが社会に浸透すればするほど、封建的な社会の仕組みが懐かしまれるのも
自然の成り行きなのでありましょう。

しかし、個人主義的な生活を送り始めた人々が、社会的拘束が多い=自由が効かない、
封建的な社会を取り戻すわけではなく、各々の生活の範囲で都合の良いものを取り入れる、
ということが、「丁寧な生活を送る」と現代では表現する。

その点において、向田邦子氏の封建的なものへの距離感、バランス感というものが
「丁寧な生活」のようだと、現代社会においてみている人もいるのだと、私は考えます。

エッセイの中で、その昔、父親が山奥に釣りに出かけたが釣りに夢中になって弁当を川に流してしまい、近くの釣り人のお弁当を分けてもらったのだが、その豪華さに驚き、お礼をしたいからと名前を尋ねるも言わずに別れた人物を、その後何年かして父親が雑誌で見かけたと。著名な生花家だったそうですが、向田邦子氏はその著名人の作品を個人的には好まないとしつつ、亡き父にお弁当を分けてくれてた人柄に温かみを感じていると締め括るこのバランス感に、人の情緒にダイレクトに届く向田邦子氏の文章の構成に、著者の温かみを感じさせられます。

この手法で次回は、現在炎上中の有名人のことを考えます。
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