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鈴木牧之、忍という字は心の上に刃を置くこと。 [雑感]

十日町市博物館へ行ったあとは、塩沢地区へ足を運びます。

鈴木牧之記念館なるものがあるとのことで、足を向けました。

米国の新大統領が行う政策というものが、富の再分配を誰が行うか。
それを国家が行う、ということであります。





鈴木牧之なる人物が、どのような人物であるか知らずに訪れました。
調べるのも良いのですが、知らない人が知るための記念館でもありましょう。

江戸時代後期に、ベストセラーを書いた作者だと紹介されています。
「北越雪譜」は、雪国の本当の姿を伝えているとのことで
鈴木牧之が江戸に赴いた際に、
雪国のことを江戸の人はどういうものかを知らずにいることに衝撃を受けたのがきっかけだそうです。

江戸後期の知識人が、どういうものの見方、捉え方をしていたか
その一端を知ることができるそうです。

紹介されている展示物を眺めていると、柳田國男の遠野物語の祖型の印象を受けます。

物事を科学的に観察をするという姿勢は、朱子学の影響があるのでしょうか。
江戸時代の知識人たちの教養というものを、
一つの枠に当てはめようとするとどこかはみ出してしまうのは、
他の学問の思想というものがいくつも社会に共存していたからでしょうか。

明日の天気も当てられないような近代経済学しか、
経済運営には使えないような現在とは趣が違うようです。

鈴木牧之の出自は商家であります。
貨幣経済の一端を成す、質屋の生業も繁盛をし、金の取り立てには厳しいが
その一方で不作や農家の困窮が続くと、農家に包み金を投げ入れるなどのこともしていたとのこと。
現代では、SNSでお金をばらまくというのが、お金集めが趣味の人たちの傾向であります。
彼らのように、自分の名前でわかるようにやるのではないシステムの方が
趣はありますし、ありがたみも増します。
評価経済という考え方からすれば、これはYouTubeの動画で岡田斗司夫氏の動画で解説がありますが
金持ちが貧窮層にお金を回すという、近代経済におけるベーシックインカムであるそうです。
国や組織が行うのではなく、個人が行う点において、
評価経済においての自己の評価点数を稼ぐシステムでもありましょう。
岡田斗司夫氏は、お金を短期に配布するのではなく、長期的に配布するのが良いといいます。
評価経済において、短期でのファンはお金を配ればすぐにつくが、そのような人たちはすぐに離れると。
そうではなく、お金に困窮している人、例えばシングルマザーの家庭に、10年間、年間100万円を
配る方が評価経済における評価の価値というものが高くなると言います。
それは同じ1億円の使いようでも、芸人にその場で与えるのと
母子家庭10組に、10年間かけて1億円を配るのでは、前澤氏のファンの質が全く異なるということです。

1億円を芸人に分けて与えても、短期的には評価をくれるが10年後には評価をくれない。
しかし、母子家庭10組に10年間、年間100万円を配り続けた方が
その母子家庭の親子からの評価は、少なくとも10年間は継続されるわけだし
前澤氏のお金のおかげで成長することができたと思う人がいれば、それは一生の評価となる。

前澤氏はお金の配り方を間違えていると暗に指摘されていますが、まさしくその通りでありましょう。

そしてそれを、国家という社会機能が果たしていないというのが昨今の問題でありましょう。
最も、そういうことは国家が福祉政策でするのではなく、新自由主義経済社会における成功者が
社会にお金を還元するように求めるのが、近代経済学の倫理であります。
ですが、お金集めが趣味になっているので、
物神崇拝をするような人たちがどれだけ手元のお金を出すのかというところには、
考えが至っていません。

話が逸れました。

江戸時代においてもそのようなことが行われていた、
無論、近代経済学のような物事を追求しない学問から発せられたのではなく、
社会に対して己は何ができるのか、という認識を江戸時代の知識人たちは有していた、
ということにもなります。
それは、儒教であり、朱子学であり、神道の思想が入り混じっているのでしょう。

最後に、鈴木牧之は書き上げた「北越雪譜」を出版するために
江戸に居住する著名作家などらに協力を求めています。
ですがなかなか刊行するには至らず、その中で滝沢馬琴が出版しようと約束をするも
10年以上出版の話が進まず、ついには違う人物が出版する手筈を整えたそうであります。
その際、鈴木牧之は滝沢馬琴に、丁寧に断りと事の進捗を伝えた手紙を書きますが
それに滝沢馬琴は、怒気を込めた手紙の返事をしてきたそうです。
そのおかげで、馬琴の手元にある完成した「北越雪譜」の原稿は戻らず、
一から書き直して出版の運びとなり、江戸時代の貸本屋に、
その本がなければモグリだとまで言われるほどのベストセラーになったとのこと。

このことから考えるに、滝沢馬琴はそのことを十分に理解していたのでしょう。
同業者として、ベストセラーになるに違いない本を出版することに、ためらいがあった。
よく言えばですが(笑)
12年放置していて、違う人物での出版にしたいと言われて、
我慢できずにいるとは何事だと怒ってしまうのは、
売れてしまえば自分の本が売れなくなることへの焦燥であったと想像をするのは、
もう過去の話ですから良いでしょう。

鈴木牧之は、自分に、堪えることを戒めにしていたそうです。
それは、婿養子の後継者に対しても、遺言書にしたためるほどの怨嗟を持っていたと言うのですから
耐え忍ぶと言うのは、難しいことであります。

今回、この記事を長々と書いているのは、堪えると言うことについて
考えるきっかけがあったからです。

それは当該地区においての飲食店での店先の張り紙に「県外からの来訪者はお断り」と言う
お知らせが貼ってあったことからです。
そこには細かく、どのような方が県外に値するのか、
店舗専用の駐車場にも県外ナンバーの車両は駐車しないでくれと言った内容であります。

ちょうどこの頃、ホリエモンが飲食店においてすったもんだを言った後のことでしたので
色々考えさせられました。

ホリエモンの内容を精確には把握しておりません。
ただ、「マスクをしなければ入店できないか?」という入店する際の問いに対して
「そんなこと言うのならば入店しないでくれ」といったようなやりとりがあった、と言う認識です。

これについては、私は結論は出ています。

ホリエモンが新自由主義経済者であるかどうかを自覚しているかはともかく、
資本家の代弁者でありますので自分の行動に制限がかかる一切の社会事情に対して、
排除する性行がある。
このメソッドを彼が有している限り、店側とホリエモン側が対立構造となり
対立構造の解消は、力の強いどちらかが相手を飲み込むか排除するかのいずれかになりますので
入店できなかった(しなかった)時点ではホリエモンが、店側の主張に屈することになり
それにどうしても堪えきれなかった(彼の論理では堪える必要もなく)ので、
飲食店に対して有利な環境において彼は自己の権利を主張した。
最も、それをした時点でどうなるかが予測できなかったとすれば、彼の資本家としての見識の未熟さを表す問題ですが、幸い彼にはまだ、資本家としての見識を失ってはおらず、彼の見識の通りの事態が展開されることになった。
それについて、俺に責任があるの?
と、とぼけるあたりは、天然でもありますし計算でもありましょう。
簡単に言えば、お子様です。

私が張り紙を見て考えさせられたのは、この権利の主張の対立です。
私はその店に入るつもりはありませんでしたが、県外からの来訪者である私にとって
不快とは思わずとも、観光をしている気分を害される内容でありました。
何故害されたかを考えると、それは自分の権利を阻害されたような印象を受けたからです。

しかし、権利を認め合うのが自由主義というものである以上、
張り紙をした側の権利を尊重するものでもあります。
では相手は、私の権利を尊重してくれているのかと考えれば、
その張り紙の内容からはそのような配慮は一切見られません。
いえ、張り紙自体が配慮であったとも考えられます。

封建時代について、良い部分もあったが、だからと言って封建社会の強い時代に生まれ変わるのは
ちょっと遠慮したいと思っている私であります。
バランスの問題でもあります。

私がホリエモンと飲食店側とのやりとりで、飲食店側の応答に教養があると感じたのは
マスクをしないと駄目かと問われて、良否を言わずに、そんなことを言うのなら入らないでくれ。
と返答をしたところです。
マスクをするしないではなく、それ以外の、それを尋ねるような人間を店に入れたくないという
店側の応答の配慮です。
ホリエモンが余計に腹立たしく思った要因かもしれません(苦笑)

さて、話が散らかっていますが、張り紙をした店側の事情をエンパシーをして見ると
観光地として開発された街並みの一角で飲食店をしている以上、県外の利用者も訪問する。
万が一、自分の店舗がクラスターの発生源になった場合、
良い意味でも悪い意味でも狭い地域社会において
周辺からの視線が厳しくなることは、都会のそれとは比ではないでしょう。
例え感染が鎮静化しても発生した店というレッテルは貼られ続けることになる。
感染の発生を恐れるのならば、店舗の営業を止めれば良いのですが、それでは生活にも関わる。
生活を優先する以上営業しなければならない、だが感染リスクは避けたい。
そのような状況において、保守的な思想が強ければ、上記の張り紙のような内容を張り出して
県外からの来訪者を遮断することで感染の発生リスクを軽減する。
もしくは、発生リスクが少ないと客観的に見られるような演出をする。
そのような経営者としての、地域社会で生存するための自己保身から出た思想が、
あの張り紙の内容であっただろうと。

鈴木牧之記念館に展示されていた内容に、忍という字は、心の上に刃を置くことである、
と鈴木牧之が考えていた展示がされていました。

感染対策と飲食店の経営のバランスとしては、もっとやりようがあるとはわかりますが
経営者の思想の拠り所によっては、もしくは主たる収入源の客層への配慮の結果であるとすれば
張り紙の添付は、資本の拡大(利益)が生まれると判断していることなのでしょう。
それはそれで不愉快になるくらいは私が、心の上に刃を置けば済むことです(苦笑)

しかし、帰路を運転中、何度かこのことを考えていました。
堪えることは良いですが、気分を害されたことには違いはありません。
まぁソンナコトモアルヨと答えは出ていますが、モヤモヤはするものです。

そのモヤモヤを解消してくれたのは、帰路の高速道路から見えた
大輪の打ち上げ花火でした。
飯田山本IC付近を走行中に、市街地を見下ろせる下りの道路上において
打ち上げ花火をフロントウィンドウ越しに見ることができました。
周囲に障害物がなく打ち上げられた花火を見ることができましたので、
それは綺麗な花火であります。

気分的にこれでチャラになったなぁと思いながら、帰宅いたしました。

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