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仮説を確認する [雑感]

司馬遼太郎氏の春灯雑記を読み返していて、司馬氏が日本の中世から近代までを
ざっと通してお話しされている文章に出会いました。

受験時にこのような俯瞰ができれば、歴史の点数の加点になっていたことは間違いありません(苦笑)





ちょうど、陶邑窯と猿投窯の関連性を考えていたところだったので
中世の日本の歴史をかいつまんで知ることができるのは、僥倖です。

七世紀初頭に遣唐使というやり方で、中国大陸の文明を切り取るようにして
日本に移植するという説明から始まり、それは中国に支払った対価として得てきたもの、
移植ゆえに拒否反応もあり、それが九世紀末の遣唐使廃止後の鎖国状態となった日本の
独自の文化、平安文化につながる。

陶邑窯の衰退は八世紀とされます。
極端に生産量が落ち、その落ちた分を猿投窯が生産を増やしています。
落ちた生産量が以前に戻ることは、ありませんでした。
八世紀とは、奈良朝国家が奈良に作った平城京を数十年で捨て、平安京に都を移す時代です。

この時代のことを、春灯雑記の司馬氏は、おおまかにこう説明されます。

さて、奈良時代の仏教のことをのべねばなりません。
隋・唐は、国家仏教でした。なにしろ大乗仏教は小乗仏教とちがい、金がかかるのです。造寺造仏を伴います。結局は国家仏教になるわけで、これに帰依しますと、帝王といえども”三宝の御奴”として仏教の下に入るのです。僧は官僧として国家公務員であり、鎮護国家という国家的原理を背負っていますから、ときに俗官俗吏を圧倒します。
その上、平城京に巨大官寺が集中し、弊害が多かったろうと推量させます。
奈良朝国家がわずか七十余年で奈良をすてて、のち京都とよばれる平安京にうつった。その主要な理由は、おそらく鎮護国家という大それたものをふりかざす仏教から脱出したかったのでありましたろう。奈良仏教は、ソ連や中国における共産党のようなものでありました。国家の上に立ち、それを鎮護する形態においてです。

春灯雑記 司馬遼太郎 194頁 朝日文庫

奈良朝国家が仏教国家であった、その仏教にはカネがかかる。
これは全国に国分寺を造寺させ、政権の役人を派遣させていた歴史を考えれば
寺の建設、建設した寺に必要とされる生活用品、仏教用品というものがある。
陶邑窯の役割は、大和政権、奈良朝国家政権においてそのような「官制品」に
深く関わっていたのだろううと、私は司馬氏の文章を読んで考えました。
技術力を地方の豪族に見せることで、政権の威容を示していた。

陶器と土器のちがいは、焼成温度の高さによる焼き締めによって、
土器よりも水漏れがしにくい器を作ることができるとのことです。
これは水を貯める甕の製作技術につながることですし、貯めることができるのであれば
醸造技術にも使われることになります。
コメから作られる酒の製造権は、お寺が持っていたというのは、
奈良朝国家が鎮護国家であり国家の上に仏教がある、
といった歴史的事実から考えても妥当なことであります。
近代国家となった明治以降の日本の税収の半分以上が、酒税であったことは忘れ去られがちです。

企画展で展示されていた、注口容器があります。
陶邑窯で生産されたものと、猿投窯で生産された同時期の陶器です。
二つは同じ目的の機能を持つ陶器ですが、千数百年経った時代の私が見た時に
二つが並べて売られていたら、猿投窯の陶器を買うと直観しました。

それは見た目と、把手の機能性です。

猿投窯で採用されている緑色の釉のかかった陶器は、同じ形状であっても見た目に与える印象は
洗練された目の引くものです。
陶邑窯のソレは、ソリッドな艶のない灰色であります。
目新しい、技術的にかけられている釉薬の色合いと、これまでの技術で作られている陶器では
見た目の商品価値に大きく差がついてしまいます。
そして把手の形状。
両者とも同じ形状なのですが、猿投窯の把手は指を入れる隙間が広い。
陶邑窯の把手の隙間は、指が入るか入らないか。把手を握るのではなく、摘むためのものに見えます。
猿投窯の把手は、握るための機能性を持たされていると、私は観察しました。

その理由が、国家仏教に製品を提供し続けていた陶邑窯は、技術の革新を怠ったのだと。
技術競争から外れる官制品を作り続けていた弊害となってしまった、
そのようなことを把手の形状の差異から私は見てとりました。

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