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耐性づくり [雑感]

縄文土器やら、江戸期における儒教やら。
今私の興味の一部は、そのような方向に向いています。
特に何を勉強するわけでもありませんが、私は車が好きですので
車で移動をして、出かけて見聞をする。

行って、見て、帰る、だけであります(苦笑)





縄文土器に関しては、小学校の頃、物好きにも歴史クラブなるものに入っていて
縄文時代の竪穴式住居のモデルをグループで製作した記憶があります。

今思えば、そのクラブは授業のカリキュラムの一環だったのですが
随分と、縄文時代に振った内容でした。
粘土を紐状にこねて、縄文式土器を製作したり、持って帰るときに誰かが割って
割れた破片で遊んでいたら、飛来した破片で同級生の女の子の顔に怪我をさせたと
問題になった覚えもあります(苦笑)

再び興味を持つのもその名残でありましょう。

江戸期の儒教においては、これはやや明瞭なものがあります。
資本主義経済を止揚するということの手段として、ということと
これからの社会が、やや宗教じみたものへの傾斜が始まる、
このことには論拠も根拠もありませんが
ここまで資本主義経済社会が先鋭化してしまうと、人が息をつけるのは
休日のレジャーだけではなくなるだろうという想像です。
精神的なもの、抽象的なもの。もしくは、中世ヨーロッパのように
カトリック教会が、貴族、農民、国民の規律を決めていたような
自分を自分以外の何かに委ねてしまおうという流れがあるのではないかなと。
それだけ今以上に社会に何かを、削られながら生きることになるのではないかと。

何の根拠もない観測でありますが、宗教的なものが社会に顕在化してくる意味合いは
行き過ぎている資本主義経済社会の制動を意味するものになるはずです。
そして制動を意味合いとするのであれば、封建的な思想というものは、すでにその役割を
商品経済社会の中で位置しているものではなかったのか、という疑問があります。

近代的な考えが、過去の思想を排除する行為そのものであれば、
ポストモダンの思想などは、かけた梯子を自分で外して落ちるようなものかもしれません。

学問はそういうものではなく、自分で仮説を立てて、自分の方法を作り、自分で発見することだ(司馬遼太郎 義務について 329頁 司馬遼太郎 春灯雑記 朝日文庫)

以上のような真似事でもできれば、幸いだなと。

それに動いていると、ありがたいことに色々繋がっていることも見えてくるもので。
それも楽しみな事であります。

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