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司馬遼太郎記念館、歳三と龍馬はどこですれ違ったかーー。『燃えよ剣』と『竜馬がゆく』展 [雑感]

司馬遼太郎記念館にて、新しい企画展が催されていますので見に行きます。



信楽焼を見に行き、お昼も前でしたのでここで帰宅するのももったいなく思い、
下道で信楽から東大阪まで。
国道307号を西へ、交差する国道1号を大阪方面へという道順。
国道1号は第二京阪道路の側道を走っているので、並走しています。
急ぎではなかったので、そのまま下道の走行を選択しましたが
流れの良さを考えても、第二京阪を使っても良かったかもしれません。

司馬遼太郎記念館の企画展にて、坂本龍馬と土方歳三が同い年だったということを知りました。

展示しているモノを見ながら、二人に共通しているものはなんであったのだろうと
想像を巡らせていると、生い立ちに商いが身近にあったことに気が付きます。

坂本龍馬の本家は才谷屋と呼ばれる土佐の商家。
土方歳三は、実家に伝わる石田散薬を行商していた(Wikipediaより)ことから
商売をするにあたっての合理的なモノの考え方が、身についていたのではないかと。
その合理的なモノの考え方と、江戸幕府末期の知識人の教養というモノの相対性というものは
資本主義経済社会に対する「止揚」に、なんらかの役割を果たす、果たしていたのではないか、
とそんな、妄想が生まれます。

同じような「考え方」「計算の仕方」をしていそうな二人が、
歴史で演ずる役割が、正反対であるのは興味深いことです。

資本主義経済とはなんぞやと、薄らぼんやり考えていると
歴史の見方も定点を持つことができるような気がしています。
例えば、坂本龍馬にしても、彼は欧州で興った産業資本主義経済というものの勘所を知っていた。
そのようにも思えます。
例えば、坂本龍馬が大政奉還ののちに新政府側と旧幕府側との戦闘が起こることを
感覚的にではなく、論理的に認識していたのではないか。
その論理とは、資本主義経済がそれまであった社会に置き換わるとき、
旧社会の風習を排除する性質がある、そのことを読み取っていたのではないか。
故に、大政奉還という将軍が権力を天皇家に返上するというやり方で、武力闘争を避けようとした。
その考えの根っこに、坂本龍馬の「人格」があるのは構いませんが、
その「人格」が考えたことは、資本主義経済社会というものがどういうものであるのかを
英国の商人の話を聞いていたのか、勝海舟も同じ認識があったのかはわかりませんが
読み抜いていたと考えた方が、龍馬の幕末期における活動が、薩長両藩のそれとは違う次元にあった。
その理由づけになる気もします。

殖産興業を導入していた薩摩藩では、封建的な権力下においての導入でありましたので
薩摩藩の経済活動がカネ経済に切り替わっていても、社会活動まで資本主義経済にまでは
置換していたのではない。それは、労働力商品化がなされていなかったことで想定されます。

資本主義経済というものが、旧社会の風習を、資本の拡大に都合の良いものは残して
あとは排除をするという性質があると、2000年以降の日本社会を辿っていくと
わかりやすいかもしれません。

規制の改革は、規制の排除。それは、資本の拡大において効率を落とす社会的な風習を
排除していくことであります。
ハンコのデジタル化は、すでに10年前からに為されていることですが、
あえてそれをメディアに提示しているのは、資本の運動の拡大を阻害しているものは
排除していくという、資本主義経済の本質を加速させていく、新自由主義者のやり方であります。

別段、ハンコとデジタル化が共生することは、誰も困らないものでしょう。
むしろ、デジタル化すべきところとそうでないところを明確にできるのであれば、
行政の効率化、単位時間の作業量の問題ではなく、何を残しておいた方が良いのか、
何が行政にとっての効率的であるのかを認識、共有できるきっかけになり得ます。

ですが、現政権は「ハンコは排除」という姿勢を強めています。
これは、経済政策におけるブレインが新自由主義者であることの裏返しでもあります。
例えば、人材派遣会社の「会長」という、最も労働を搾取されない場所に座っている人とか。

坂本龍馬は、当時の日本で数少ない(ほとんどいない)産業資本主義経済を社会に導入することで
何がデメリットであるのかを把握していた人物、と、私は勝手に妄想をします。

彼の中では、土佐藩におけるような上士・下士の身分制を排除するには、
産業資本主義経済社会の導入が必要であるとわかっていたでありましょうし、
その社会が導入されるということで生まれる、武力闘争など初めから排除した形で
革命を行うつもりでいたのではないか。

となると、坂本龍馬は随分と「優しい人」だったように思えます。

これに対して土方歳三は「厳しい人」であるのも、資本主義の論理から引き出すこともできます。

彼は合理主義を、商品経済が身近にあることで身につけていた。
その合理主義を、新撰組の組織で押し進め、強力な組織づくりを可能にした。
その結果、幕末期の京都における活動が有機的に行われた。
新撰組の基本は、排除の思想でありましょう。
隊規が最も神聖なものとされ、隊規を犯したものには死を与える。
その強力な結束力により、幕吏としての力を十全に発揮した。
資本の拡大にそぐわないものは排除をする、資本主義経済にとっての合理的な思想から
引き出されてきたのではと、私は妄想をします。

土方歳三の目的は、新撰組の拡大にあった。
新撰組の拡大を阻害するようなものは、全て排除をする。
経済合理性から生まれた組織論でもありましょう。

同じ経済合理性を持ち合わせたであろう坂本龍馬は、この土方歳三とは正反対のやり方でした。

彼は排除をしない。
浪人たちを幕府海軍の研修生にしてみたり、彼の周囲に集まる人材を排除しないやり方を続けた。

司馬遼太郎氏が、「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」を並行して連載していたのは
二人の対比もあったのではないかと、この記事を書いていて思えることです。

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