良心の可視化 [雑感]
ドライブレコーダー付きの車両が、街中で多く見かけられるようになってから数年。
煽り運転に見られるような、運転手のイライラが明らかに見て取れるような事態を見るのも
減ってきたような気がします。
仕事上、日中、街中を走っています。
ここ10年ほど感じていたのは、随分と苛立った運転をする人が増えたということです。
私が学生をしながら社会に出たのは、バブルが終わり、消費税の導入される前のことです。
その頃を思い返してみると
仕事のためならルールやマナーは、ちょっと横に置いておく、
そんな風潮がまかり通っていた社会でした。
曖昧な表現で、昭和の時代だったからと言われるような事柄です。
ですが、見えないラインを越える、ことについて車社会の暗黙のルールもあった、
そんな気もします。
ローカルルールであったり、ルールを破っていても、他人に迷惑をかけていても
かけられた側も相手の理由を察する、それに対して文句を言うのか言わないのか。
大人な対応というべきか、封建的システムがまだ社会で運用されていたのか。
そのような社会(交通社会)が変化をきたしたのは、2000年以降でありましょう。
無論、交通社会だけではなく、日本の社会全体が切り替わった潮目でもあります。
何をもたらしたかというと、今まで社会の中で暗黙に運用され、受け継がれてきていた
封建的システムの排除になります。
やったもん勝ちのルールの適用を、メディアも政治も喧伝することになります。
その片棒を担いだのが、メディアではホリエモンであり、政治家では小泉純一郎でありましょう。
政治家の方は、自分の権力欲のためにもしくは、出世ゲームの上がりマスにたどり着くための手段でもあったかもしれませんから、天然で選択していたとしたら、罪は深いものになります。
ホリエモンの場合は、新自由主義経済社会における資本家とはどのようなものかを
わかりやすく可視化したモデルでありますので、彼の本質である資本家の代弁者、という役割は
彼が望んでいたものでありましょう。
さて、そのやったもん勝ちの社会が到来して、しばらくすると社会は疲弊し始めます。
格差の拡大、などといった美辞麗句に包まれたような社会状況ではなくなる、ということを
労働者の多くが肌身で感じ始める事ができた頃合いだと私は観察しています。
その結果としての、運転手の苛立ちが分かりやすい運転の顕在化、であると。
資本主義経済は、既存の社会を排除して、もしくは資本の運動に都合の良い部分とは共存して
社会に浸透していくものだと、マルクス経済学者の宇野弘蔵は言っています。
交通社会にもそれは適用されるでしょう。
封建的なシステムによって人類の社会の知恵としても運用されていた何かが、
資本主義の導入、新自由主義の導入によって排除され、数年経つと社会の問題として浮上してくる。
それが煽り運転にもつながるのではなかろうかと、私は観察します。
煽り運転の前に、煽り運転をされない社会の知恵もあるはずです。
そのようなものが社会から排除され、排除される社会というものがギスギスしたものであり
そのギスギスしたものが、運転手の苛立った運転につながる。
そのような見立ても悪くはないでしょう。
ドライブレコーダーが、地獄の閻魔様が持つ「浄玻璃の鏡」であるのか。
そんな面倒なものは、地獄の閻魔様に持たせておけばいいとお釈迦様は考えたと、
小林秀雄氏は言います。
その面倒なものが世の中に溢れるようになれば、社会から理不尽が消えるわけでもなく
良心の問題も片がつくあろうことはありません。
ドライブレコーダーに、自分の良心を預けることで問題が解決されるとすれば、
人の心の所在すら考えない、機械に任せるような社会がどのようになるのか。
それは、小林秀雄氏の言うように「面倒な」社会でありましょう。
煽り運転に見られるような、運転手のイライラが明らかに見て取れるような事態を見るのも
減ってきたような気がします。
仕事上、日中、街中を走っています。
ここ10年ほど感じていたのは、随分と苛立った運転をする人が増えたということです。
私が学生をしながら社会に出たのは、バブルが終わり、消費税の導入される前のことです。
その頃を思い返してみると
仕事のためならルールやマナーは、ちょっと横に置いておく、
そんな風潮がまかり通っていた社会でした。
曖昧な表現で、昭和の時代だったからと言われるような事柄です。
ですが、見えないラインを越える、ことについて車社会の暗黙のルールもあった、
そんな気もします。
ローカルルールであったり、ルールを破っていても、他人に迷惑をかけていても
かけられた側も相手の理由を察する、それに対して文句を言うのか言わないのか。
大人な対応というべきか、封建的システムがまだ社会で運用されていたのか。
そのような社会(交通社会)が変化をきたしたのは、2000年以降でありましょう。
無論、交通社会だけではなく、日本の社会全体が切り替わった潮目でもあります。
何をもたらしたかというと、今まで社会の中で暗黙に運用され、受け継がれてきていた
封建的システムの排除になります。
やったもん勝ちのルールの適用を、メディアも政治も喧伝することになります。
その片棒を担いだのが、メディアではホリエモンであり、政治家では小泉純一郎でありましょう。
政治家の方は、自分の権力欲のためにもしくは、出世ゲームの上がりマスにたどり着くための手段でもあったかもしれませんから、天然で選択していたとしたら、罪は深いものになります。
ホリエモンの場合は、新自由主義経済社会における資本家とはどのようなものかを
わかりやすく可視化したモデルでありますので、彼の本質である資本家の代弁者、という役割は
彼が望んでいたものでありましょう。
さて、そのやったもん勝ちの社会が到来して、しばらくすると社会は疲弊し始めます。
格差の拡大、などといった美辞麗句に包まれたような社会状況ではなくなる、ということを
労働者の多くが肌身で感じ始める事ができた頃合いだと私は観察しています。
その結果としての、運転手の苛立ちが分かりやすい運転の顕在化、であると。
資本主義経済は、既存の社会を排除して、もしくは資本の運動に都合の良い部分とは共存して
社会に浸透していくものだと、マルクス経済学者の宇野弘蔵は言っています。
交通社会にもそれは適用されるでしょう。
封建的なシステムによって人類の社会の知恵としても運用されていた何かが、
資本主義の導入、新自由主義の導入によって排除され、数年経つと社会の問題として浮上してくる。
それが煽り運転にもつながるのではなかろうかと、私は観察します。
煽り運転の前に、煽り運転をされない社会の知恵もあるはずです。
そのようなものが社会から排除され、排除される社会というものがギスギスしたものであり
そのギスギスしたものが、運転手の苛立った運転につながる。
そのような見立ても悪くはないでしょう。
ドライブレコーダーが、地獄の閻魔様が持つ「浄玻璃の鏡」であるのか。
そんな面倒なものは、地獄の閻魔様に持たせておけばいいとお釈迦様は考えたと、
小林秀雄氏は言います。
その面倒なものが世の中に溢れるようになれば、社会から理不尽が消えるわけでもなく
良心の問題も片がつくあろうことはありません。
ドライブレコーダーに、自分の良心を預けることで問題が解決されるとすれば、
人の心の所在すら考えない、機械に任せるような社会がどのようになるのか。
それは、小林秀雄氏の言うように「面倒な」社会でありましょう。