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半分青いと、日本の経済史 [雑感]

NHKの朝の連続TV小説、「半分青い」。楽しく見させていただきました。

ここ最近の朝ドラで、現代社会を取り扱ったターンは、今ひとつ盛り上がりに欠ける、
といった印象を抱いていました。
戦前戦後あたりの日本社会が面白かったのか、脚本家の差異なのか。
よくわかりませんでしたが、この「半分青い」を見ているうちに、
主人公の人生の選択は、当時の日本の経済に合致したものだと思えるようになりました。

主人公の生まれは1971年。これが日本経済のキーワードだったのか。





主人公は、岐阜の田舎(失礼)の町の出身。
その町では、少々「変わり者」の考え方をしていましたが、その主人公が
漫画家の修行に東京に出たところ、主人公の考え方の方が「普通」のように映り出します。

都会に出ると、地方では変わり者だったけれども、都会の方がもっと変わり者が多い。
その中で普通になってしまう。それは人格だけではなく、漫画家としての才能も然り。

漫画家修行、デビュー、再びアシスタント生活、といった東京で10年を過ごすと
主人公は漫画家への道を諦め、漫画以外の収入で生活をしていくことになります。
しかし、高校卒業してから10年、漫画家のアシスタントの経歴と単発のアルバイトの職歴しかない
主人公が職についたのは、東京の商店街の中にあるチェーン店の100円均一のお店でした。

主人公が高校を卒業した年は、1989年。
そして10年間、バブル景気に浮かれる東京の街で、漫画家修行をすることによって
当時の社会と隔絶されます。
漫画家を諦めたのが1999年。バブルが終焉を迎え、資本主義社会のルール変更に伴う
日本の従来の産業資本主義から金融資本主義へと向かう中での、景気回復ができない日本社会が
迎えることになるデフレ社会の尖兵とも言える「100円均一」のアルバイト。

ドラマの面白さに、社会の凸凹をデフォルメすることがあると考えると、
バブルの好景気の時代に、主人公をその凸凹とするためには、漫画家修行という
伝統的なシステムの中に10年、閉じ込める必要があったように考えました。
主人公と社会の行き違いに、面白みを作ることができる。
それは彼女が、岐阜という地方出身者であっただけではなく、東京に居てもバブル景気の恩恵に
主人公を浴さないことが肝だったように思えます。

彼女の人生の選択は、ドラマの中ではさらりと流されているように思えますが、
彼女が、他人から見て幸せだと思えるようなことには、なっていません。
それは最後まで同じだったと思われますし、それで良いでしょう。

彼女の人生の選択は、地元の信用金庫の職員にコネで採用されたことを断り、
漫画家を目指すことから始まり、10年、デビューとアシスタントを勤め、
漫画家を辞め、100円均一のアルバイトで生計を成し、甘ちゃんだけが取り柄の
映画監督見習いと恋に落ち結婚し子供を作り、そして離婚。
シングルマザーとなって地元に帰り、実家の食堂が地元飯で繁盛をして
祖父から五平餅の焼き方を直伝され店を出すも、その店も譲り、
娘のフィギュアスケートの才能のために再び東京で生活をすることを決め、
東京で決まったと思った仕事も社長の失踪でご破算となり、後はその場しのぎで
シングルマザーとして生活をしていく。このシングルマザーの生活の肝となるのが、
自分以外の収入の援助、です。
主人公の場合は、元旦那の育ての親である親族からの援助が得られるわけです。
脚本家の方は、よく観察されているなと思いました。
シングルマザーを幇助するような社会の動きを実際に見たことがありますが
単純に考えれば、実の両親の援助なり支援がなければ、生活費を稼ぐための時間と
子育てをする時間の両立などは、到底不可能に思えました。
これが新自由主義の考えだとすると、社会をどこまでひっくり返したいのか。
ひっくり返した後に、ぺんぺん草くらい生えると思っているのか。

ここまでの流れを日本の経済で追っていくと
バブル経済前の高度経済成長期における地方高卒での真っ当な就職先としての信用金庫、
景気が良い日本社会で、漫画家のアシスタントでも食べていけるバブル期。
そのバブル期の終焉とともに、新人漫画家の枠も減り、アシスタント生活に戻り
デフレ社会と非正規雇用社会の到来の中で、就職できずにアルバイト。
旦那も、映画監督見習いといえばまだしも、実態はアパート暮らしのプー太郎。
ITバブルも短期間で終焉し、日本の景気は回復をすることなく
消費税の導入と増税で景気の回復を遅らせていくことになります。
ドラマの後半は、この不景気の中でのお話に加え、フラットな社会、新自由主義者たちの好む
ハードルの無い世界が表現されていきます。
規制の枠組みの排除がもたらしたのは、ドラマ後半の出演人物たちのような仕事ぶりでした。
資本主義社会を抑えていた規制が排除されるに連れて、社会の疲弊は強くなっていく。
そして2011年の震災を迎え、
主人公の(精神的な?)半身でもあった漫画家時代の同僚を震災で亡くす、
といったところでお話は終焉を迎えます。

このドラマは、脚本家の経済史的な日本社会の変遷を主人公の人生にうまく合わせた
その物の見方が、面白さの肝だったように思えました。

今1980年代後半のドラマを見ても、親近感が湧くかどうか怪しい限りです。
その理由は、経済状況の差異と資本主義社会のルール変更による日本社会の変異があるからでしょう。
社会が断絶してしまった。
水戸黄門が面白く無くなったのは、画面が綺麗になって明るくなったからだけではなく
水戸黄門のような人がいる必要がなくなったから、でしょう。
フラットな社会、ですから、悪代官をやっつけるのは、知的な好々爺ではなく
反知性的なマスメディアと大衆の役割なのです。
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