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司馬遼太郎作品を超えよう [雑感]

雑誌の記事の中に、「先生方、そろそろ司馬遼太郎氏を超えるような作品を・・・」
という内容がありました。

立ち読みですので、一字一句違いがないかはわかりませんが、こんな話の始まりです。

超えるためには、司馬遼太郎氏の歴史上の人物の評価の「的外れ」なところがある。
そのような人物に対して「まっとうな評価」を与え直すことで
司馬遼太郎氏の呪縛から歴史小説界を解き放とう、と。

読んでいる私には、こだわりがないのですが
執筆側には、結構な呪縛なのですね。




わたしの結論。
自分の都合の良い方向で歴史を観察するしか頭の無いその方々では
司馬遼太郎作品を超えるような作品を書くことはできない(でしょう)、です。

登場している昭和10年生まれ後半や、昭和20年生まれの方々が
作家なのか写真家なのか、だれなのか判別しませんが
司馬遼太郎作品に縛られ過ぎた時代を超えるには、司馬先生以上の作品の出番ではないでしょうか
という、編集者か誰かのおべっかからの始まりです。

その意図を貫徹しようと思うのならば、そんなお年寄りにお任せすることではありません。
いや、読者層が、まだそこら辺なのだから、良いのかもしれませんが(笑)
でもそれでは、作品の質で超えるということにはなりません。
営業成績では超えるかもしれませんけれども。

少なくとも、30代、40代の作家に、はっぱをかける意味でなら、まだわかりますが
それにしたって、いまの30代、40代、もっと若い世代の、司馬遼太郎作品への評価が
どれだけのものであるか、わかったものではありません。

藤堂高虎の評価が、司馬遼太郎氏の「近江商人」のイメージが強すぎて
武士である藤堂高虎のまっとうな評価から外れていると思うのだか、
司馬遼太郎氏の作品の影響力からは、逃れにくい、という例を上げて
藤堂高虎についての、彼らの考えている「まっとうな評価」を与える作品を
作ることは、司馬遼太郎作品を超えることにならないのか、などなど。

ちょうど、司馬遼太郎が考えたこと3、を読んでいたところ、藤堂高虎の随筆が出てきました。

彼らの考える「商人」とは、戦国時代の「武士」よりも、程度が低い、という認識なのは
藤堂高虎の「政局を見る目の正確さ」を「商人的」と捉えた、司馬作品のおかげで
「まっとうな評価」がされておらず、それが幅を利かせていると言っていることで、わかります。

なんとも、偏っていることかと。

司馬遼太郎氏の表現した藤堂高虎の小説を読んでいませんが
藤堂高虎の「まっとうな評価」をしているのは、「近江商人」として表現されている
司馬作品のほうが、しごく「まっとう」なのではと、素人ながらに思うわけです。

主人を、コロコロと、情勢を見て変えるようなことは、「武士的」ではないという観察から
上記の立ち読みの中の人物たちは、司馬作品の「商人的」評価を嫌っていることと見受けられますが
戦国時代の武将としての能力にたけていることであり、商売のころ合いを見計らう「商人的」な
観察眼が、藤堂高虎を戦国時代を生き延びさせ、その後、江戸時代、幕末、明治まで生き延びさせた
その本質を、これ以上、過不足なく表現していると感じました。

主従関係が、戦国時代ほど「ドライ」であったのは、歴史が示しています。
彼らの考えている「武士的」な要素は、恐らくその大半は、江戸時代に作成されたものと考えるのが
妥当でありましょう。
明治時代における「乃木希典」あたりが、彼らの考えている「武士的素養」の表現者であり
その「武士」としての「まっとうな評価」を、戦国時代にも適応したいのかなと。

もうこの時点で、すでに、司馬遼太郎作品を超えることは、できないと思うわけですが(苦笑)

立派でしょう、戦国時代を生き延びて、家康から行知を受け取り
江戸時代を幕末まで無事過ごし、機を見て新政府側に鞍替えするということは
藤堂藩は、しっかりと、高虎の意志を、300年以上受け継いできた、立派な藩であるのに
わざわざ、「武士的な評価をし直すことで、まっとうな評価」にすることもないでしょう。
地元の方々は、商業的にも含めて
立派な「武士的評価」が欲しいのかもしれませんけれども。

司馬遼太郎氏の、藤堂高虎の評価は、至極まっとうで、恐らく藤堂高虎本人が聞いても
目くじら立てて怒ることはないでしょう。
司馬遼太郎氏を超えるために、藤堂高虎の再評価をしたがっている人たちの話を
藤堂高虎本人が聞いたら、どう思うでしょう。

司馬遼太郎氏の作品は、歴史小説であって、歴史作品ではありません。
でも、司馬遼太郎氏のフィルターを通して、対象とする人物を知ると、とても愛情を感じることができます。
つまり、歴史上の人物は、司馬作品の中での登場に
同じ発言はしなくとも、同じような内容の発言はしたであろうし、考えていたであろうと
素直に受け取ることができるのです。

後世の人の考える「まっとうな評価」を与えるために、歴史を作るのは
粘土細工を作るようなものとは、危険な、非常に多くの意味を含んでいるのだと思うわけです。

司馬遼太郎氏の作品を超えるためには
まず、歴史上の人物への、惜しみない「愛情」の質と量が試されるのかと考えると
私の狭い読書歴の中では、そのようなことをしている作家は「塩野七生」氏しか、思い浮かばないのです。

半藤さんもそうかも、と思いましたが、まだ作品を読んでいませんし
まだまだ、歴史作品として構成できる「時間の経過」を過ぎていない「昭和史」の内容は
生々しく感じられます。


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