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自由を尊ばれるのは。 [雑感]

日本の防疫戦略では、数値的にはピークアウトの頂点は低いまま(他国に比して)
かもしれませんが、各方面は、いろいろと煽りますよね。
外的に行なわされるのか、内的に行うのか。
同調圧力の強いと言われる日本の社会において、どちらにせよリスクがあることです。
法的根拠が乏しいまま、前例となって自粛基準が出来上がるのも問題でありましょう。
では問題だからといって、外的に、社会としては法律として制定されるというのも
平等ではありますが、それが自由であるのか。
平等主義と自由主義は相容れないものである。

そして自由とは何か。
これを愚行権という権利から考えてみると、私の中で少し明瞭になったことがありました。


自ら常識をするとは、自分の生活において、
刻々と変化する現状について考えることを止めない。

現状、感染を抑止する、ではなく、感染の広がりを抑える段階に入っていることを考え、
重篤な症状を発症する患者数の、「急激な増加」を抑える目的のために社会が動いている。

その上で、何を考えるのか。

愚行権とは、自分ではない他人の愚かな行為を認める権利です。
ただし、他の人に危害を加えない範囲であればの条件付きでありましょう。

「濃厚接触」という行為が、止められないのはなぜか。
それは、無意識に「自由」というものを社会から剥奪される、
もしくは制限を受けるかもしれないことへの防衛反応を示すことではないかと思いつけました。

愚行権は、他の人に危害を加えない、その制約があればこその「自由」でありましょう。

現状において、無警戒の濃厚接触により、感染が広がることが他人に危害を加えることになる、
それは「愚行権」の行使ではない。
そして、なぜそのような行為を選択する心情を理解する手立てになりました。
何か社会からの圧力に対して、自由というものを手放したくないといった防衛反応が
社会の流れに対しての逆張りをすることで、自由であることを「無意識に」認識している。
そのことを論理的に理解できたのは、幸運でした。

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